未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
問いの終焉と人工知能
以下の記載は、知的思考の終着点を描いた 第1384回 「問いの終焉」 からの抜粋である。
科学を構成する基礎的な大発見は出尽くし 「科学が終焉」 したと喧伝されて久しい。 さらなる大発見も幾つか残されてはいるものの、そのどれもが膨大な研究資金を必要とするものであって、投資に値する収益性が見込まれるものでない限り、その研究資金を拠出する者(企業・政府・団体等々)はいない。 現在行われている科学研究の大半は、その収益性に見合った大発見の 「応用と実用化に関するもの」 である。 このような傾向は科学に限ったことではなく、あらゆる分野でも同様に起きている。 考え得る限りの音楽や、考え得る限りの文学が、創作され尽くした現在、すべての創作物はそのオリジナルの模倣であり、そうでなければその変形である。 科学的成功によってもたらされた物質的豊饒が臨界に達すれば、その成功を支えた知的活動もまた臨界に至ることは必然の帰結である。 知的活動が尽きなば、その活動を支えていた 「こころ踊る精神的高揚」 もまた尽きなんことは必定の成り行きである。 最初はやりたいことが山ほどあっても、それが達成されるにしたがって減少し、すべてが達成されるをもって皆無となる。 これは精神的高揚感変遷のメカニズムである。 科学的成功によってもたらされる科学の終焉はまた知的探求の終焉であって、問うべき問いが尽き果てたとき、人間としての精神的高揚感もまた終焉を迎えることになる。
なぜいったい、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?
これは実存主義哲学者マルチン・ハイデッガーの 「存在と時間」 で提供された問いである。 この問いは、哲学の一分野である存在論の根本的な問いであると同時に、現代科学の究極の問いでもある。 換言すれば 「この問いは、問うべき問い の最期に位置する 問い」 である。 存在論を突き詰めたあげくに至った究極の問いが 「もともとあったものは無ではなかったのか?」 という大反転の帰結は何とも象徴的である。
弘法大師空海は62歳で高野山に入定(入滅)するに際して、「太始と太終の闇」 と題する以下の偈(詩文)を遺している。
三界の狂人は 狂せることを知らず
四生の盲者は 盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終わりに冥し
37歳で早世した詩人、アルチュール・ランボーは、18歳の時に書いた 「地獄の季節」 の中で 「見えた、何が、永遠が」 の一節をのこして詩人を廃業、放浪の旅を続けたあと、最後はアフリカの武器商人に転生したという。 ランボーが見た世界とは、いったい 「何であった」 のか? 「究極の永遠」 は、また 「究極の無」 でもある。
哲学者ハイデッガーにして、宗教家空海にして、詩人ランボーにして、生涯に渡って 「存在の何たるか」 を問い続けた知的探求者であった。 哲学者ハイデッガーは 「無」 に行き着き、宗教家空海は 「冥」 に行き着き、詩人ランボーは 「永遠」 行き着いた。 無と言い、冥と言い、永遠と言うも、それは微妙な表現の異なりであって、本質は同じであったであろう。 「問うべき問いが尽き果てたとき」 に彼らが背負った 「虚無」 と 「絶望感」 はいかばかりであったであろう。
かくして世は人工知能時代である。 「チャットGPT」 の登場で 「問い」 はたちどころに解消され考える暇もない。 知的思考がここまで標準化されてしまうと、もはや人間は名実ともにロボットのごとくである。 人工知能を駆使する現代人の姿は、第619回 「科学的合理主義の終着点」 の中で、文豪ゲーテ(1749〜1832年)が指摘した以下の人間像に酷似する。
・・ 富と速さは、世界が称賛し、誰しもが目指しているものです。 鉄道、急行郵便馬車、蒸気船、そして交通のありとあらゆる軽妙な手段は、開花した世界が能力以上の力を出し、不必要なまでに自己を啓発し、そのためかえって凡庸さに陥るために求めているものであります。 そもそも現在は、すぐれた頭脳、理解の早い実用的な人間のための世紀であり、彼らは、たとえみずからは最高度の天分を有さずとも、ある程度の器用さを身につけているだけで衆に抜きんでるものと思っているのです ・・・。
その姿をゲーテ思想を研究したオーストリア生まれ(1911年)の文芸評論家、エーリヒ・ヘラーは ・・ 技術的進歩とは、「地獄をもっと快適な居住空間にしようとする絶望的な試み」 以外のほとんど何物でもありません ・・・ と辛辣な表現をもって描いている。
だが、人工知能を駆使する現代人の姿からは、問いを失った虚無や絶望感は微塵も感じられない。 それは 「問いのない未来」 がしかと見えていないのか? それとも 「便利であればそれでいい」 とする 「道具主義(プラグマティズム)」 の為せる業であるのか? 人類がたどりゆく道の吉凶は 「大いなる賭け」 の中に没している。
※)道具主義(プラグマティズム)
知性や概念は問題解決のための 「道具」 であるという考え方。 19世紀末アメリカで生まれた。 知識や理論の真理性を 「実用的結果(役に立つか)」 で判断する哲学。
2026.03.29
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