Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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< 時間と空間 〜 存在と時間 >
期限の消滅
 「いつ生きるの? 今でしょう」 からすれば、生きるのは過去でも未来でもなく今この時である。 その今の今の連続がその人の生涯を構築することからすれば目指すものは 「その今を楽しむ」 ことに尽きる。 仮に明日に死が訪れようと、今の今は、こころ安らかにして面白く生きることに 「専念する」 だけで事足りているのである。 もとより生身の体であってみれば、確実な未来など保証される者などこの世には存在しない。 であれば時間には 「これといった期限」 など存在しない。 いつまでにやるという 「未来の期限」 も、いつまでにしたという 「過去の期限」 も、ともに存在しない。 もし期限というのであればそれは 「今の今である現在」 である。 ゆえに 「いつやるの? 今でしょう」 という警句が、ぼんやり生きていた諸人の脳髄に予期せぬ覚醒をもたらしたのである。
2019.03.03
存在の時めき
 以下の記載は 「存在の今の今」 を論じた 「存在の時めき」 からの抜粋である。
 そこに椅子が存在するとはその存在が持続的に存在することを意味している。 その椅子は突然そこに出現したわけではなく、しばらく前からそこに存在し続けている。 しばらく前とは過去を意味しているのであるから、その椅子の存在の意味には 「過去の意味」 も含まれていることになる。 またその椅子はこの先もしばらくは存在し続けるであろうし突然消失するわけでもない。 しばらく先とは未来を意味しているのであるから、その椅子の存在の意味にはまた 「未来の意味」 も含まれていることになる。 説明するまでもないが、今ここにその椅子が存在することからして、その存在には 「現在の意味」 も含まれているのは当然である。 かくこのように存在には過去・現在・未来という時間の 「3 態様」 が意味的に含まれている。 一挙に還元すれば、存在とはすでに時間であり、時間はすでに存在である。 存在に含まれている意味をとり出すことを、哲学者、大森荘蔵はその著書 「時間と存在」 の中で 「存在の時めき」 と呼んだ。 大森はさらにこの 「存在の時めき」 は道元が 「正法眼蔵」 で 「有時」 と呼んだものに他ならないと述べている。
 大森荘蔵が 「存在の時めき」 と呼んだものは、「期限の消滅」 で述べた 「時間にはこれといった期限など存在せず、いつまでにやるという未来の期限も、いつまでにしたという過去の期限も、ともに存在しない。 もし期限というのであれば、それは今の今である現在である。 「いつやるの? 今でしょう」 を 「存在の時めき」 と訳した大森荘蔵の慧眼には、哲学者の認識とは 「かくあるか」 と思い知らされる。
 またドイツの哲学者ハイデッガーは、その著書 「存在と時間」 の中で、ニーチェの 「永遠回帰説」 について次のように述べている。
 未来において何が起こるかは、まさに決断にかかっているのであり、回帰の輪はどこか無限の彼方で結ばれているのではなく、輪が切れ目のない連結をとげるのは、相克の中心としての 「この瞬間」 においてである。 永遠回帰におけるもっとも重い本質的なものは、まさに 「永遠は瞬間にあり」 ということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目前を疾走する刹那とかではなく、「未来と過去との衝突」 であるということである。
 ハイデッガーの言うところは、永遠は遥か彼方にあるのではなく、未来と過去を連結する 「今の今」 にあるのであって、この 「瞬間こそが永遠」 なのであるということである。 そして大切なことは、未来と過去が衝突し相克の中心であるこの瞬間での 「決断」 であるというのである。
 以上の論旨をくまなく省察すれば、「期限の消滅」 しかり、「存在の時めき」 しかり、「永遠は瞬間にあり」 しかり、視点は異なるものの同じ時空の断面を三者三様の言葉をもって描いているにすぎないことが理解されてくるであろう。
2019.03.05
過去や未来は現在に含まれている
 「過去や未来は現在に含まれている」 とする構造認識は、ベストエッセイセレクション 「時空の消失点〜時間も空間もない世界」 で論じた 「線形時間を廃棄したことで導かれた重層的に重ねられた世界構造」 からくるものである。 だがこの構造認識はすべての人に通用するものではない。 あるとき右脳派の友人に、「時間は過去・現在・未来と流れていると思われているが、実は過去と未来は現在に含まれていて、状況に応じて現在に象出するのだ、あの壁にもたれている人を見るがいい、彼の周りには今、過去が象出している」 と話したとたん、彼は 「わかった!」 と感嘆の声をあげたが、同じことを左脳派の友人に話したら、冷ややかに鼻で笑われたのである。
 それはさておき 「過去や未来が現在に含まれていて、その含まれていたとある過去や未来の場面が、とある現在の刹那に象出する世界構造」 はさまざまな示唆に富んでいる。 日頃、今の今である現在にて遭遇する津々浦々の出来事が、とある過去や、とある未来の場面であると考えることは、いうなれば 「現在を 3倍 にして生きる」 ことでもある。 常識をはるかに超えた仮説ではあるが、「探求してみる価値」 は充分にある。
2019.03.06
存在の目的
 現在とは 「Pairpole 宇宙モデル」 でいえば、時空間を時間で微分した 「刹那宇宙」 のことである。 他方、過去・未来とは時空間を時間で積分した 「連続宇宙」 のことである。 刹那宇宙は時間が断裂した宇宙であるからして、時間経過に帰因する因果律は成立しない。 連続宇宙は時間が経過する宇宙であるからして、因果律が成立する。 刹那宇宙では、すべての事象が超因果律的に生起消滅する。 他方、時間が経過する連続宇宙では、すべての事象が因果律的に原因と結果で生起消滅する。 結局。 「期限の消滅」、「存在の時めき」、「永遠は瞬間にあり」 で論考したことはすべて、刹那宇宙と連続宇宙で構成された 「Pairpole宇宙モデル」 の胎動からすれば当然の帰結なのである。 思考は巡って原点に回帰したようである。 であれば今の今をとらえた現在を描いた 「期限の消滅」、「存在の時めき」、「永遠は瞬間にあり」 の描象が、心理学者、ユングが提唱した 「共時性」 の態様そのものに一致することもまた必然の帰結である。 共時性はまた 「目的論」 と呼ばれる。 刹那宇宙である現在に象出する 「意味ある符号(予兆)」 がいったい何を目的としているかということである。 だがその目的の探求には時間経過で構成される因果律を使用することはできない。 すべては超因果律的なアプローチで挑まなくてはならない。 結論から言えば、探求の方法として因果律を基にした認識学や論理学等々の思考法は用を為さないであろう。 科学的合理性を強固に信じる現代人には、はなはだ不評ではあろうが、ここは非論理的な 「直観」 などを基にした超因果律的な方法を駆使する以外に他に道はないのである。
2019.03.07
刹那と連続の狭間
 結局。 生きるとは今の今である現在、即ち運動をともなった実在である 「刹那の世界」 に生きることである。「いつ生きるの? 今でしょう」 を描いた期限の消滅にして、「存在とはすでにして時間である」 を描いた存在の時めきにして、「存在と時間の狭間」 を描いた永遠は瞬間にありにして、人が生きる実存とは、今の今である刹那の世界にあることを高らかに主張している。 過去や未来で構成される連続の世界は、その背景として描かれているに過ぎないのである。
 構築された 「Pairpole 宇宙モデル」 における刹那宇宙とは、宇宙(時空間)を時間で微分した宇宙であって、宇宙の方向性(傾き)を表している。 他方、連続宇宙とは、宇宙(時空間)を時間で積分した宇宙であって、宇宙の大きさ(面積)を表している。 刹那宇宙は物質運動をともなった実在(リアル)の世界であるのに対し、連続宇宙は意識で構成された仮想(バーチャル)の世界であって、それはまた意識に描かれた 「宇宙の運動軌跡」 を表している。
 密教を基とした空海が唱えた求道の精神 「仏として生きる」 とは、かかる刹那宇宙における動的存在(存在の時めき)を述べたものであろう。 他方、顕教を基とした最澄が唱えた求道の精神 「仏に向かって生きる」 とは、かかる連続宇宙における静的存在を述べたものであろう。 それはまた 「右脳的な直観力に依った空海」 と 「左脳的な認識力に依った最澄」 とのアプローチの違いであろう。 ふたりが対峙した 「顕と密の狭間」 とは、また 「連続と刹那の狭間」 でもあった。
2019.03.12
直観と認識の狭間
 線形時間を廃した時間も空間もない 「今の今」 の世界とは、空海が目指した想像と現実が融合した 「即身の場」 である。 顕教を究めた最澄は左脳(認識)の人であるのに対し、密教を究めた空海は右脳(直観)の人である。 その空海が目指した 「即身」 の教えが左脳的な認識を超越した右脳的な直観に終始することはやむを得ないことであって、その直観を認識で理解しようとすると多大な困難がともなうこともまた当然の仕儀である。 その違いは代数学と幾何学の対比に相似する。 数式を使って解に導く代数学ではデジタル的な認識が優先されるのに対し、図形を使って解に導く幾何学ではアナログ的な直観が優先される。 前者の解は 「理解」 であるのに対し、後者の解は 「頓悟」 である。 手順を踏んだ認識で得られる 「理解」 と瞬時の意識跳躍で得られる 「頓悟」 では、その本質がもとから異なっている。 密教の頓悟(悟り)が 「大いなる秘術」 とされる所以は実にここにある。
 想像と現実が融合した 「即身の場」 は物質的運動をともなった 「今の今」 という 「刹那の宇宙」 である。 その宇宙に意識的想像をもってアプローチする人間には 「いかなる方法」 があるのか? その宇宙が物質的運動を基とする以上、意識的想像をのみもってしては実現は不可能である。 言葉としては合理性が欠けるが 「意識的運動」 をもってアプローチすることが妥当であろう。 曰く、「運動するように想像する」 ことである。 言葉の合理性からはさらに逸脱してしまうが、頓悟を目指す大いなる秘術ともなれば充分に許容されるものであろう。 運動をともなった想像として想起されるのは陽明学を創始した王陽明が唱えた 「知行合一」 の教えである。 「知行合一」 とは知(即ち想像)と行(即ち運動)を融合一致させることである。 「知って行わざるは知らぬに同じ」 ということである。 王陽明もまた空海同様に過去と未来で構成された仮想の連続宇宙ではなく、実在としての刹那宇宙である現在に生きた 「達人」 であったということができる。
2021.01.08
物質と意識の狭間
 即身の場である現在を唯物論的視点で眺めると物理学が語る 「物質的運動」 の世界であり、唯心論的視点で眺めると心理学が語る 「意識的運動」 の世界である。 かって、「化石と幽霊」 と題して、その世界の対比を以下のように描いている。
 この宇宙が 「物そのもの」 だけで構成される 「科学の方法論」 で記述される 「唯物的世界」 であるとするならば、人間は 「化石」 のようなものである。 他方、宇宙が 「心そのもの」 だけで構成される 「心理学の方法論」 で記述される 「唯心的世界」 であるとするならば、人間は 「幽霊」 のようなものである。 化石も味気ないが、幽霊も味気ない。
 また、ワームホールの命名者であるジョン・アーチボルト・ウィーラーは 「宇宙とは現象である」 と述べている。 ウィーラーは 「現実はすべて物理的なものではないかもしれない」 と問題提起した最初の物理学者である。 我々の宇宙は 「観測行為と意識を必要とする参加方式の現象かもしれない」 というのである。 想像と現実が融合した即身の場である今の今である 「現在」 を意識を必要とする参加方式の 「現象」 であると要約したウィーラーの直観力は 「詩心をもった物理学者」 の面目躍如たるものがある。 曰く、「現在とは物質と意識が融合した現象である」 と。
 さらに、物質と意識の結びつきを研究した英国の物理学者ロジャー・ペンローズが著した 「皇帝の新しい心」 は発表されるやいなやセンセーショナルな論争を巻き起こした。 ペンローズの理論が特徴的であるのは、統一理論の 「あるべき姿がいかなる思考から生まれるのか」 という従来の物理学にはなかった 「アプローチ方法の違い」 にある。 彼の理論は多分に荒削りではあるものの、もし彼の言うことが正しいとすれば、物理学の理論を一挙に統一するとともに、哲学の最難問とされる 「物質と意識の結びつき」 を解決する可能性を秘めている。
2021.01.12
直観的場面と歴史的場面の狭間
 シンプルな宇宙である 「現在だけの宇宙」 は、想像と現実が融合した 「即身の場」 である。 では 「唯識としての想像」 と 「唯物としての現実」 が融合して成る 「即身のメカニズム」 とはいかなるものであろうか? 換言すれば 「現在場を構築するメカニズム」 とはいかなるものであろうか? 先日。遙か以前に検討した意識世界を記述する 「直観的場面」 と物質世界を記述する 「歴史的場面」 のことが不意に想起された。 それらの場面が構築される様相は、第211回 「直観的場面構築」 と 第212回 「歴史的場面構築」 で詳述しているのでここでは割愛して、その帰結のみを述べれば以下のようになる。
 直観的場面とは 「現在場」 における 「想像の場面」 であり、歴史的場面とは 「現在場」 における 「現実の場面」 である。 つまり、直観的場面と歴史的場面が融合して一体化した世界風景とは、とりも直さず 「現在場の風景」 である。 「シンプルな宇宙」 への道はそのときすでにして拓かれていたのであろうが、悲しいかなその 「構築メカニズム」 に想到するに、かくも長き 「思考の熟成」 が必要とされたのである。
2021.01.25
道元禅師かく語りき
 曹洞宗の開祖、道元禅師が著した 「正法眼蔵」 に 「而今(じこん)」 という言葉が登場する。 而今とは 「今この一瞬」 の意である。 道元は 「過去もなく未来もない、ただ今があるのみ、今の刹那を生きるのだから何をするにしても心を込めなさい」 と諭した。
 また道元は 「正法眼蔵」 の 「有時(うじ)」 の巻で、独特の時間論を展開している。 「有時」 は 「有る」 という字に 「時」 と書く。 この 「有る」 は 「存在」 のことで、人間に焦点をあて、「有時」 と一語にしたのは、自分を抜きにして時は存在し得ないということを表現しようとしたからである。 その中で道元は 「時はひとりでに過ぎ去っていくものだと考えてはならない」 と述べている。 また 「一瞬一瞬に自分という存在を滑り込ませつつ時は生み出されていくものである」 とも述べている。
 かくして道元は 「この自分という存在と一体の時間を生きる今」 とはどうあるべきかを問いかけ、而今としての 「今この一瞬」 の時間としっかりと向き合って生きる時、その人にとっての時間とは、単に一方向に過ぎ行く流れではなくなり、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開されていくものとなると結言した。
 以上の 「而今」 や 「有時」 で述べられた 「道元の時間論」 は、まさに過去・現在・未来が連なった 「線形時間」 を廃棄したときに現れる、時間が流れない 「今の今」 という 「現在だけの世界」 を述べているかのような不可思議な感懐を覚える。 それは空海にして、陽明にして、同様に感じるものである。 それは 「シンプルな宇宙かく在る」 を実感させるに 「必要にして充分な証」 を与えてくれているように私には思われるのである。
2021.01.26
木枯し紋次郎〜無窮の渡世人
 無宿渡世に怒りを込めて口の楊枝がヒュッと鳴く、あいつが噂の紋次郎、孤独を癒しさすらう旅か、愛を求めて彷徨う旅か、頼れるものは只一つ、己の腕と腰のドス ・・ 木枯し紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家にうまれたという。 10歳の時に国を捨て、その後一家は離散したと伝えられる。 天涯孤独な紋次郎が何故無宿渡世の世界に入ったかは定かでない ・・・。
 木枯し紋次郎には過去も未来もない。 がゆえに永遠に朽ちることがない。 本人は 「あっしには関わりのねえことでござんす」 と言うであろうが、今の今という 「現在だけの世界」 に生きる 「無窮の渡世人」 なのである。
2021.01.28
カサブランカ〜永遠は瞬間にあり
 映画 「カサブランカ」 の中でハンフリー・ボガートが演じた名場面。 酒場の女がひとり飲んでいるボガードに近づきあまくささやきかける。
  「昨日は何してたの?」
  「そんな昔のことはわからない」
  「今夜はどうするの?」
  「そんな先のことはわからない」
 昨日(過去)も、明日(未来)もない。 自分には今日(現在)だけしかない。 ハードボイルドに生きる男の面目躍如たるカットシーンである。 それは、今の今である 「現在だけの世界」 に生きる者にしてはじめて言える 「名台詞」 である。 「永遠は瞬間にあり」 を語って余りある。
2021.01.29
曼荼羅の世界
 過去・現在・未来が連なった線形時間を廃棄したときに現れる 「今の今」 である現在だけで構成された 「シンプルな宇宙」 では過去や未来はその現在に含まれている。 だがその構造は一場の風景のようであって 「どこが過去」 で 「どこが未来」 なのか渾然一体となって判然としない。 現在に含まれている過去と未来とは 「いかなるもの」 であろうか? 現在とは 「存在」 である。 であれば、存在であることをもって、過去と未来はすでにして 「現在」 に含まれている。 その中から過去や未来の意味を取り出すことを、大森荘蔵は 「存在の時めき」 と呼んだが、今の今である現在は、漠然と眺めれば変哲なき無窮の日々のようにみえる。 だが決して 「退屈な世界」 ではない。 そこにあるのは 「存在の時めき」 に生き生きとリフレクトする豊饒なる 「曼荼羅の世界」 なのである。
 私は安曇野エッセイ 「ナンバーワンからオンリーワンへ」 の末尾で、その曼荼羅の世界を以下のように描いている。
 我々の生きる世界を語るに 「社会」 では 「無味乾燥」、「娑婆」 では 「殺伐」、今や古くなってしまったが 「浮世」 という美しい日本語をもっている。 浮世とは、さまざまな 「オンリーワン」 に彩られた 「曼陀羅の世界」 である。 その曼陀羅世界のどこに生き、どこに遊ぶのか ・・ それは、我々 「ひとり」、「ひとり」 に与えられた自由な人生の賜なのである。
 科学的概念を芸術的手法で描いたサイエンスアート 「MANDARA」 はかくなる曼荼羅の世界を意匠化した 「ベーシックコンセプトデザイン」 である。 現在だけのシンプルな宇宙の様相を視覚としてイメージ願えればもって幸いである。
2021.02.01

2026.02.17


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