Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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< 時間と空間 〜 時は流れず >
相対性理論が意味するもの
 以下の方程式は周知のアインシュタインが構築した物質がもつエネルギ式であり、別名 「悪魔の方程式」 と呼ばれる。 それはこの数式が原子爆弾製造の基本原理となったがゆえであるが、平和利用を掲げてスタートした原子力発電が、3.11東北大震災に起因した福島原子力発電所の事故により未曾有の放射能汚染をもたらし、周辺住民に塗炭の苦しみを強いている日本の現状をみると、その悪名はさらに増したようにさえ思える。
                                   E:エネルギ
                   E=mc2              m:質量 (重さ)
                                     c:光速度 (30万km/s)
 この式の意味するところは、宇宙に存在する物質は、その質量(重さ)に光速度の 2乗を掛けたエネルギをもつとするものである。 原子力ではこのエネルギのことを一般に 「核エネルギ」 と呼んでいる。
 以下の方程式はニュートンが構築した運動物体がもつエネルギ式で、一般に 「運動方程式」 と呼ばれる。
                                   E:エネルギ
                   E=1/2mv2           m:質量 (重さ)
                                     v:運動物体の速度
 この式の意味するところは宇宙で運動する物体(物質)は、その質量(重さ)に運動速度の 2乗を掛けたエネルギをもつとするものである。 (1/2は係数)
 2つの数式が意味するものとは何であろう ・・?
 まず方程式が述べる論理を比較すると以下のようになる。
 アインシュタイン方程式での主題は 「宇宙に存在する物質」 であり、ニュートン方程式での主題は 「宇宙で運動する物質」 である。 違いは 「存在する」 と 「運動する」 である。 アインシュタイン方程式でのエネルギ算出は 「光速度の 2乗 を掛ける」 であり、ニュートン方程式でのエネルギ算出は 「運動速度の 2乗 を掛ける」 である。
 次に、以上の論理に 「等価原理を適用」 すると、アインシュタイン方程式は以下のように変換される。
「宇宙に存在する物質は光速度で運動しており、その運動エネルギは mc2 である」
 この変換結果が示すものは、この宇宙に存在する物質は 「光速度で運動している」 という驚くべき宇宙風景である。 仮に宇宙を大きな 「宇宙船」 と考えれば、我々はその宇宙船に乗って、いずれの方向かは不明であるが 「光速度で飛行している」 のである。 さらに重大なことは、アインシュタインの相対性理論が正しければ、物体の速度が光速に近づくにつれて時間はゆっくり進み、光速に達すると 「時間は停止」 することになる。 つまり、我々の乗った宇宙船は光速度で飛行しているわけであるから、「宇宙船内の時間は停止している」 ことになる。
 以上の思考結果は、私が提示した、時間は人間の内なる意識世界には存在する(保証される)が、外なる宇宙自然界には存在しない(保証されない)こと、さらに時間の流れとは、人間の意識波の波動速度であって、それは光速度であるとした 「Pairpole 宇宙モデル」 の帰結に大きな力を与えてくれる。
 以下、蛇足ながら付け加えると、光速度飛行している宇宙船に乗っている我々にスピード感がないのは、宇宙船の移動が 「等速度運動」 のためである。 ニュートンの運動方程式では、物体は外部から力を加えない限り、静止を続けるか、等速度運動を続けることを規定している。 力を加えると物体に加速度が生じ、物体は加速するか、減速する。 我々が感じるスピード感とはこの加速度であって、加速度がない 「等速度運動」 とは、本質的には 「静止状態」 と変わりがない。 ただ異なるのは等速度運動を続ける物体(ここでは宇宙船)は運動エネルギをもっていることである。 その運動エネルギは 「慣性エネルギ」 と呼ばれる。 物質がもつエネルギ 「E=mc2」 はまたこの慣性エネルギでもある。 その莫大な大きさを、我々は一般に物質がもつ 「核エネルギ」 として、原子爆弾の爆発力をもって実感しているが、物質がもつ 「慣性エネルギ」 として、例えば重さ 1kg の石を、光速度 30万km / s (1秒間で地球 7回半 する速度)で壁に衝突させた破壊力をもって実感することができる。 さらに我々の乗る宇宙船(宇宙)が等速度運動を続けることは宇宙船(宇宙)には外部から力が作用していないことを物語っている。 同様に物理学で最も基本的な法則とされる 「エネルギ保存則」 が宇宙船(宇宙)の内部で成立することは、宇宙船(宇宙)には外部からエネルギが作用していないことを物語っている。
 いうなれば我々が搭乗している宇宙船(宇宙)は 「孤立無援で飛行」 しているのである。
2011.10.03
線形時間は存在しない
 過去・現在・未来が連なった 「線形時間が存在しない」 ことは本稿で幾度か論考してきた。 過去と未来は意識世界の出来事であって、意識を消失すればたちどころに消滅する 「仮想の世界(バーチャル世界)」 である。 しかしながら、現在は物的運動をともなった 「実在の世界(リアル世界)」 であって、過去や未来の世界とは本質的に異なっている。 「時は流れる」 と主張する人は 「時間が記憶意識で構築された過去というバーチャルな仮想世界から、現在という物的運動で構築されたリアルな実在世界を経て、再び想像意識で構築された未来というバーチャルな仮想世界に向かって流れている」 などという 「妥当性」 をいかなる論理をもって説明しようとするのか? 放たれた矢が 「記憶で構築された無形の意識世界から、運動で構築された有形の物質世界を通過して、再び想像で構築された無形の意識世界に向かって飛んでいく」 などという 「矢の飛行軌跡」 をいかに脳裏に描いたらよいのであろうか? 私には描くことができない。
 今は亡き反骨の哲学者、大森荘蔵(1921年〜1997年)は、我々が日常的に考えている過去・現在・未来と並べられた 「線形時間」 は存在しないことを哲学の論理をもって明らかにした。 その存在しない線形時間を存在するとしたために、時間は 「過去→現在→未来」 と流れる(経過する)という考え方が生まれたのであることを看破、積年の課題であった古代ギリシアの哲学者ゼノンが投じた 「アキレスと亀」 のパラドックスは、運動を伴わない仮想としての線形時間と実在としての運動を結びつけたことが原因であって、「存在しない運動軌跡を時空に思い描いたことによる」 と簡潔にして明瞭に証明してみせたのである。
(※)大森荘蔵(1921〜1997年)
 岡山県生まれ。 1944年 東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1945年 海軍技術研究所三鷹実験所勤務。 物理学を志すも科学における哲学的問題を問うため哲学に転向。 1949年 東京大学文学部哲学科を卒業。 現象学などを学ぶが満足せずアメリカに留学。 ウィトゲンシュタインの哲学や分析哲学をはじめとする現代英米圏の哲学から大きな影響を受ける。 帰国後、1953年 東京大学講師に就任。 助教授を経て、1966年 東京大学教養学部教授(科学史・科学哲学科)。 1976年 東京大学教養学部長就任。 1977年 辞任。 1982年 放送大学教授。 1983年 放送大学副学長就任。 1985年 辞任。 これまでの日本の哲学研究が学説研究や哲学史研究などの文献学に偏りがちだったことに異を唱え 「哲学とは額に汗して考え抜くこと」 を本義として、多くの学生たちに影響を与えるとともに、数多くの哲学者を世に送り出した。
(※) 「アキレスと亀」 のパラドックスとは
 紀元前5世紀、ギリシャの哲学者、ゼノンが提唱した運動の不可思議に関するパラドックスであり、足の速いアキレスはどんなに頑張って走っても、自分より先に出発した鈍足の亀に追いつくことができないというもの。 なぜならアキレスが亀が今いる所まで辿り着いた時、亀はそれより少し先まで行っている。 更にアキレスが次なるその地点まで行った時には、亀はまた更にその少し先まで行っている。 また更にアキレスが次なるその地点まで行った時には、亀はまた更にその少し先まで行っている ・・ ということで、アキレスは永久に亀に追いつけないのである。
2020.12.23
軌跡の消失〜運動を時間で分解することはできない
 時間が過去→現在→未来と線形的に流れているように感じるのは 「時間というパラメータを使って、この世の出来事の経過を支障なく説明できる」 からに他ならず、それ以外に相当の妥当性を満たす理由を見いだすことはできない。 また、「運動を時間で分解することはできない」 とは、運動を撮影した映像がコマ送りすることができても、現実の運動をコマ送りすることができないことによる。 この意味では運動と映像は似て非なるものである。 投げあげたボールを空中で停止させることなどできないのである。 停止できるのは運動が終了して速度が 0 になった状態でのことである。 同様に投げあげたボールの運動軌跡を時間をパラメータにして1枚の紙の上に描けるからといって、実在場である 「現実空間の上」 にその軌跡を描けるわけではない。 線形時間を使った過去・現在・未来とは時間をパラメータにして、脳裏にある記憶としての1枚の紙の上に描いた森羅万象の運動軌跡であって、実在場である現実空間の上に描いた軌跡ではない。 現実空間にあるものとは 「今の今」 という現在だけである。 現在とは速度をもった 「運動そのもの」 であって、それを 「静止画に分解する」 ことなどもとより不可能なのである。
2020.12.24
軌跡のない日々〜ある思考実験から
 芥川賞作家、小川洋子の同名の小説を映画化した 「博士の愛した数式」 は軌跡が消失した世界を描いた思考実験のような物語である。 物語は天才数学者であった博士(寺尾聰)が不慮の交通事故がもとで記憶が80分しかもたなくなってしまうことから始まる。 その博士のもとで働くことになった家政婦の杏子(深津絵里)とその10歳の息子(吉岡秀隆)との心の交流を描いたものである。 博士はその息子をルート(√)と呼び可愛がる。 博士が教えてくれる数式の美しさやキラキラと輝く世界にふれていく中で、2人は純粋に数学を愛する博士に魅せられ次第に数式の中に秘められた 「美しい言葉」 の意味を知る ・・ 詳細は映画を観てもらうとして、本題は以下のところである。
 80分しか記憶がもたない博士は家政婦の杏子が出勤する度にきまって昨日と同じに 「君の靴のサイズはいくつかね?」 と聞く。 杏子が 「24です」 と答える。 「ほお 実に潔い数字だ 4 の階乗だ」 と褒める。 昨日の記憶がない博士にとっては毎日がまったく経験のない 「新たな日々」 なのである。 博士が生きている世界は、まさに 「線形時間」 を廃した 「時は流れず」 の世界であり、「運動を時間で分解できない」 とする 「今の今」 の世界であり、過去と未来が重層的に内蔵されている 「今の今の世界」 である 「現在そのもの」 である。 博士の日々はその内蔵されている過去と未来から実在場としての 「その日(現在)」 に投影された 「場面」 である。 我々はなまじ 「記憶が持続」 するために現実空間に 「ありもしない」 昨日から今日に至る 「日常(運動)の軌跡」 を思い描いているにすぎないのである。 博士の日常と我々の日常を分け隔てているものは、「はなはだ曖昧」 で頼りない 「意識的記憶」 でしかない。 かく考えれば、映画 「博士の愛した数式」 は 「軌跡のない日々」 を描いた思考実験物語のようにみえてくる。 博士が生きた世界は常人であれば行き着くことができなかった純粋で透明な美しき数式の世界であったが、その投影された過去と未来の場面(日々)の中で、「充分に幸せ」 であったであろうし、その日々をともに過ごした家政婦の母子にとっても、それはまた同じであったに違いない。
2020.12.25
時間も空間もない世界
 歴史小説は時間軸に沿って構成された 「連なった世界の物語」 であると考えられているが、過去・現在・未来で構成された 「線形時間が存在しない」 ならば、その連なった世界の運動軌跡もまた存在しない。 それは 「過去と未来が現在に含まれているとする世界」 であって、その構造から考えれば、歴史小説は 「連なった世界の物語」 ではなく、「重なった世界の物語」 であるということになる。 重層的に構成された 「とあるひとつの歴史場面」 から他の 「とあるひとつの歴史場面」 への移行は意識世界に開口された時空トンネルとしての 「意識ワームホール」 を通過することで可能となる。 歴史小説は 「連なった世界の物語」 として読むよりは、むしろ 「重なった世界の物語」 として読まれてしかるべきである。
 光速度は秒速30万Km、ざっと1秒で地球を7回り半する速度である。 物質宇宙ではこれを超える速度が 「存在しないこと」 がアインシュタインの相対性理論の根拠となっている。 もしこの光速度を超える存在が実証されたとたん確固たる存在であった物質宇宙は崩壊してしまう。 他方。 意識の速度は無限大である。 意識が発する思いは遠く離れていても瞬時に相手方に到達するように観える。 速度が無限大ということは、速度の概念を構成する時間が存在しないことを意味する。 なぜなら速度は移動距離を要した時間で除したものであるからして、速度が無限大ということは即ち移動時間が 0 であることを意味している。 つまり、時間は存在しない。 これが線形時間を廃棄したことで導かれた重層的に重ねられた世界構造の風景である。 以上を統合することで以下のような結論が導かれる。
 この世界には時間はなく、さまざまな過去と未来が重層的に重なった現在だけがある
 この世界には空間がなく、さまざまな現在が重層的に重なった仕組みだけがある
 この 「時間も空間もない世界」 は理論物理学者デビット・ボームが論じた 「暗在系と明在系で構成された宇宙構造」 に相似する。 曰く。 「物質宇宙とは同時系列で重層している時空間が瞬間瞬間に我々が認識できる形で現実世界に象出することで実在場が構築され、この瞬間が連続することで我々に時間という概念を発生させ、時系列で連続している時空間を認識の中に構成させることで存在している世界かもしれない ・・ 」 を彷彿とさせる。
 また新海誠監督のアニメ映画 「君の名は」 にも 「時間も空間もない世界」 が登場する。 「君の名は」 で描かれた世界は、架空の町 「糸守町」 が隕石の落下で壊滅してしまうその前後の時空間であろうが定かではない。 時として出来事の前であったり、後であったりする。 それは過去と未来が現在に含まれているとする重なった世界で構成された 「時間も空間もない宇宙構造」 そのものである。 重なった世界の各々の境界は物理学で言う 「特異点」 であって、科学理論が破綻している。 「君の名は」 では、その特異点の様相を 「互いに身体が入れ替わっている少女と少年が、あるひとつの世界から別のひとつの世界に移ると、前にいた世界のことを忘れて思い出せないという現象」 をもって描かれている。 物語のラストは 「とある現在の時空間」 に戻った少女と少年が、都会の片隅にある石段の途中ですれ違う場面で描かれている。すれ違う2人は互いにどこかでかって出逢ったことがあるような奇妙な感覚を抱き 「どこかでお会いしましたか? 君の名は」 という問いかけで終わる。
 時間と空間が消失してしまった世界を想像することは、物質文明に慣れ親しんできた者にとっては 「非情なる困難」 をともなう。 しかしながら、このような世界を完全に否定し捨て去ってしまうこともまた 「非情なる困難」 をともなう。 畢竟。 この世の不可解はかくも無窮であって、進みゆく 「知のワンダーランド」 は尽きることがないのである。
(※)重層的に重なった宇宙構造
 重層的に重なった宇宙構造はフランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した 「フラクタル」 と呼ばれる幾何学概念に相似する。 この概念による 「宇宙存在の構造」 は、サイズを拡大していっても縮小していっても 「同じ構造」 が現れる 「入れ子人形」 のような構造である。 私はその構造法則を 「細部は全体、全体は細部」 と表現している。 重層的に重なった宇宙構造として 「相応の妥当性」 をもって受容できる宇宙の内臓秩序(仕組み)である。
2020.12.26
現在だけの世界
 過去・現在・未来が連なった 「線形時間」 を廃棄すると、我々が生きる宇宙はごく 「シンプルな構造」 へと収束する。 時間が流れない 「今の今」 という 「現在だけの世界」 である。 人類はなまじ意識的持続力をともなった記憶力や想像力を付帯しているがゆえに、バーチャルとしての仮想空間に、実在しない過去や未来の世界を創りだすことで、この世界を複雑化させ、自らの頭を悩ましているにすぎないのである。 さらに 「線形時間」 を廃棄すると、時間どころか空間さえも消失し、代わって 「仕組みだけの世界」 が登場してくる。
 ではそのような世界に我々が存在する根拠はどのように 「保障される」 のであろう。 その保障を請け負っているのが想像と現実を融合する 「即身の思想」 である。 ここで言う現実とは、時間が消失した 「今の今」 と呼ばれる物質的運動で構成された有形な 「現在」 であり、想像とは、意識的操作で構成された無形の 「過去と未来」 である。 想像と現実の融合とは、有形な現在と無形な過去・未来を 「一体化する」 ことに他ならない。
2021.01.07

2026.02.10


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