Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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それぞれの四季
 以下の記載は、吉田松陰の風景 「至誠天に通ず〜留魂録に思う」 からの抜粋である。
 「留魂録」 は死を予感した松陰が、大急ぎで書きとめたものであるが、文脈の乱れもまったくなく冷静に、整然と門下生に最後の言葉を伝えている。 彼はこれを二日で書き上げている。 内容は門下生に対する諄々たる指導であり、激であり、愛情であり、説諭であり、遺言である。 すべての文章にこころをうたれるが、特に彼の死生観を記述した部分においてその極に達する。 その現代語訳を以下に記す。
 ・・ 今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。 つまり、農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。 秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。 この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。 私は30歳で生を終わろうとしている。 いまだひとつも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。 だが私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。 なぜなら、人の寿命には定まりがない。 農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。 しかしながら人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。 10歳にして死ぬ者には、その10歳の中におのずから四季がある。 20歳にはおのずから20歳の四季が、30歳にはおのずから30歳の四季が、50、100歳にもおのずからの四季がある。 10歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。 100歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。 私は30歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。 それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのか私の知るところではない。 もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。 同志よ、このことをよく考えてほしい ・・・
 松陰の死を前にしての覚悟であり、悟りであり、絶唱である。 彼のまいた種子が年々実り大きな収穫の歓喜となったことは後の歴史が証明するところである。
 科学文明がいくら進歩したからといって、死を前にした人間の魂が都合良く救済されるわけではない。 それは原始以来このかた変わりはない。 様相は不治の病で余命○○年を宣告された状況に自らを置けば明瞭に理解されよう。 その救済に人間は徒手空拳で立ち向かわなくてはならないのである。 ロボットも人工知能も何ら役にたたない。 そしてやがて知るであろう。 人間は生きるにおいて 「何ら進歩などしていない」 のである。 松陰が遺した 「留魂録」 はそのことを伝えている。
 生きとし生けるものの慶びとは、そのライフタイム(寿命)の長短にあるのではなく、唯一、「それぞれの四季」 をいかに全うするかにかかっているのである。

2025.11.07


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