Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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刹那と連続
 「ペアポール宇宙モデル」 は宇宙が重なった 「刹那宇宙」 と宇宙が連なった 「連続宇宙」 の2つの宇宙で構成されている。 数学的に表現すれば、刹那宇宙は宇宙(時空間)を時間軸に対して垂直に断面した宇宙であり、連続宇宙は宇宙(時空間)を時間軸に沿って平行に断面した宇宙である。 さらに言えば、刹那宇宙は宇宙を時間で 「微分した宇宙」 であり、連続宇宙は宇宙を時間で 「積分した宇宙」 である。 その微分値は新たに発生する 「宇宙の方向性(ベクトル量)」 を表し、その積分値は新たに発生する 「宇宙の大きさ(スカラー量)」 を表している。 宇宙の方向性とは、重なった宇宙の中から個別の宇宙を 「選択する」 ことを意味し、宇宙の大きさとは、選択された個別の宇宙がたどる経路を 「積算する」 ことを意味する。
 今は亡き反骨の哲学者、大森荘蔵(1921年〜1997年)は、我々が日常的に考えている過去・現在・未来と並べられた 「線形時間」 は存在しないことを明らかにした。 存在しない線形時間を存在するとしたことで時間は 「過去→現在→未来」 と流れる(経過する)という考え方が生まれたのである。 現在は物理的な運動を伴った 「実空間」 であって、物理的な運動を伴わない意識的な 「虚空間」 である過去や未来とは本質的に異なっている。 線形時間はその異質な実空間と虚空間を無理矢理に連結したものであって、意識世界の中に構築した 「仮想の時間概念」 でしかない。 さらに線形時間が存在しないことは 「運動の軌跡」 が存在しないことを意味する。 積年の課題であった古代ギリシアの哲学者ゼノンが投じた 「アキレスと亀」 のパラドックスは、運動を伴わない仮想としての線形時間と実在としての運動を結びつけたことが原因であって、「存在しない運動軌跡を時空に思い描いたことによる」 と簡潔にして明瞭に証明してみせたのである。
(※)「アキレスと亀」 のパラドックスとは
 紀元前5世紀、ギリシャの哲学者、ゼノンが提唱した運動の不可思議に関するパラドックスであり、足の速いアキレスはどんなに頑張って走っても、自分より先に出発した鈍足の亀に追いつくことができないというもの。 なぜならアキレスが亀が今いる所まで辿り着いた時、亀はそれより少し先まで行っている。 更にアキレスが次なるその地点まで行った時には、亀はまた更にその少し先まで行っている。 また更にアキレスが次なるその地点まで行った時には、亀はまた更にその少し先まで行っている ・・ ということで、アキレスは永遠に亀に追いつけないのである。
 時間が過去→現在→未来と線形的に流れているように感じるのは、「時間というパラメータを使って、この世の出来事の経過を支障なく説明できる」 からに他ならず、それ以外に相応の妥当性を満たす理由を見いだすことはできない。 また、「運動を時間で分解することはできない」 とは、運動を撮影した動画映像がコマ送りすることができても、現実の運動をコマ送りすることができないことによる。 この意味では運動と動画映像は似て非なるものである。 投げあげたボールを空中で停止させることなどできないのである。 停止できるのは運動が終了して速度が 0 になった状態でのことである。 同様に投げあげたボールの運動軌跡を線形時間をパラメータにして紙の上に描けるからといって、実在場である現実空間の上にその軌跡を描けるわけではない。 現実空間にあるものとは 「今の今」 という現在だけである。 現在とは速度をもった運動そのものであって、それを静止画に分解することなど、もとより不可能なのである。
 還元すれば、刹那としての現在は 「1枚の写真の世界」 であり、連続としての過去や未来は 「1巻の動画の世界」 である。 「永遠の人生が瞬間に尽きている」 とは1枚の写真の中に永遠の人生のすべてが存在していることを意味する。 他方、1巻の動画の中にはかって 「存在したであろう過去の人生」 とこれから 「存在するであろう未来の人生」 のすべての軌跡が記録されていることを意味する。
 結言すれば、刹那は実在であり、連続は仮想である。 それはまた、人生の前景(センターステージ)としての刹那であり、背景(バックグラウンド)としての連続である。

2025.09.30


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