Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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ある邂逅〜思惟のワームホール
 生涯に渡って弥勒菩薩に帰依していた弘法大師、空海は、自らの死をまえにして 「太始と太終の闇」 と題した偈(詩文)を遺した。 その中で、現実と虚構の狭間に横たわる 「大いなる錯覚」 を激烈な表現をもって慨嘆した。 聖徳太子もまた、その大いなる錯覚を 「世間虚仮 唯仏是真」 という言葉をもって教示した。 この世にある物事は、すべて 「仮の物(虚構)」 であり、仏の教えのみが 「真実(現実)」 であるという意である。
 奈良斑鳩の中宮寺本堂には飛鳥彫刻の最高傑作といわれる国宝、弥勒菩薩像が安置されている。 聖徳太子の母をモデルにして作られたと伝えられる優美な漆黒の像である。 以下の記載は 第311回 「思惟半跏像への回帰」 からの抜粋である。
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 哲学者 和辻哲郎は、その著 「古寺巡礼」 の中でその弥勒菩薩像を以下のように書いている。
 少々うつむきかげんに腰をおろし、右足を左足の上にのせ、左手はその右足をおさえるように置かれ、右手はほほにふれるか、ふれないように添えられている。 そして、なにより美しいのは、その 「思惟」 の表情であった。 目は軽くとじられ、口もとに何とも言えぬほほえみを浮かべている。 それは静かな、そして深く考え込むというよりは、瞑想にひたっているようである。 口もとに浮かべたほほえみはアルカイック・スマイル(古典的微笑)と言われる。 およそ愛の表現として、この像は世界の芸術の中に比類のない独特なものではないか。 これよりも力強いもの、威厳あるもの、深いもの、あるいはこれより烈しい陶酔を現すもの、情熱を現すもの、それは世界に希でもあるまい。 しかし、この純粋な愛と悲しみとの標号は、その曇りのない専念のゆえに、その徹底した柔らかさのゆえに、おそらく唯一の味を持つ。 古くは古事記の歌から、新しくは情死の文学まで、ものの哀れと、しめやかな愛憎を核心とする日本人の芸術は、すでにここにその最もすぐれた、最も明らかな代表者をもっているのである。 あの悲しく貴い半跏の観音像は、かくみれば、われわれの文化の出発点である。
 尼寺としての静かなたたずまいをもつ境内を歩き、この思惟の像と最初に対面したのは、私がまだ22歳の若年の頃で、晩秋の柔らかい陽射しがふりそそぐ、とある日の昼下がりであった。 だが30年の歳月が経過した今も、その日のことが鮮明に思い出されるのである。 およそ 「思惟の真相」 はすでに当時、この像の中に凝縮され、充分に顕現していたのであろうが、悲しいかな、その意味を理解し、思惟の実像に回帰するのには、30年の歳月の経過が必要であったということであろうか。 (2003.4.16)
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 弥勒菩薩像の横には 「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」 が置かれていたのであるが、その折は眺めるだけで特段の注意が払われることはなかった。 天寿国繍帳とは、聖徳太子の死後、妃の橘大郎女が中心となり、太子追悼のために織らせた繍帳である。 だがその繍帳の中に 「世間虚仮 唯仏是真」 という聖徳太子の遺言が縫い込まれていたのである。
 生涯に渡り弥勒菩薩に帰依していた弘法大師、空海であってみれば、弥勒菩薩像はもとより、この天寿国繍帳のことも知っていたに違いない。 あるいはこの斑鳩のささやかな堂を訪れていたのかもしれない。 弥勒菩薩を中央にして聖徳太子と弘法大師の三者がここ斑鳩の地でともに邂逅をはたしていたのである。 その光景はユングの共時性(意味ある符号)を彷彿とさせるに充分である。
 彼らの魂が行き着いた世界は 「宇宙は現象」 と言った物理学者 ジョン・アーチボルト・ウィーラーの主張と等価的に一致する。 聖徳太子が遺した 「世間虚仮」 とは、現代語に変換すれば 「宇宙は現象」 ということになろうし、弘法大師が遺した 「太始と太終の闇」 もまた究極で 「宇宙は現象」 という認識に収束する。 勿論、もの言わず静かに瞑想する弥勒菩薩もまたその 「現象世界」 に遊んでいる。
 若き日、弥勒菩薩像のもとを訪れたとき、すでにそこには弥勒菩薩、聖徳太子、弘法大師を繋ぐ 「思惟のワームホール」 が開口していたのであるが、哀しいかな私にはそれをしかと感じることができなかったのである。
 かくして、さまざまな思惟のワームホールを巡った探求の旅は 「宇宙とは観測行為と意識を必要とする参加方式の現象である」 という帰結に行き着いた。 参加方式の現象とは、あなたの意識参加なくして、この世は存在しないということである。 それはまた、あなたの意識がいかなるワームホールを通って、「どこに生まれ」、「どこに遊ぶ」 のかは、自由な人生の賜ということを意味しているのである。
 和辻哲郎は、思惟について 「思いでも」、「考えでも」 なく 「瞑想」 に近いと述べている。 今、時を隔てて記憶を回想すれば 「弥勒菩薩像の思惟の表情」 が私にはあたかも探し求める 「宇宙の心」 を映しているかのように観えてくるのである。

2025.09.20


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