身を縛るあらゆる束縛から解放されることが人としての
「真の自由」 であろう。 束縛とは、単に物理的な束縛に限られるものではなく意識的束縛も含まれる。 人によっては物理的な束縛よりも意識的な束縛の方がより強固であると感じるかもしれない。
喩えて言えば、牢獄の中での物理的な束縛よりも草原の中での意識的な束縛の方をより強固に感じるようなものである。 原始社会での束縛と言えば、もっぱら物理的な束縛が主体であったであろうが、現代情報社会では、もっぱら意識的な束縛に主体が移行しているのかもしれない。
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物理的な束縛とは、言うなれば 「体の束縛」 であり、意識的な束縛とは
「心の束縛」 である。 それはまた体の自由への束縛であり、心の自由への束縛である。
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第220回
「永遠回帰と無限変身」 では、「時間の束縛」 と 「空間の束縛」 について論考した。 その中で、哲学者ニーチェが提示した 「永遠回帰の思想」
とは、時間の束縛からの解放を目指したものであり、関西学院大学社会学部教授、宮原浩二郎が提示した 「無限変身の思想」 とは、空間の束縛からの解放を目指したものであるとした。
この宇宙は 「時間」 と 「空間」 で構築された世界であってみれば、住人である人間が時間と空間に拘束されることは 「必然の帰結」
であるとともに、逃れざる 「宿命」 であろう。
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「物理的な体の束縛」 や 「意識的な心の束縛」
には、「時間と空間の束縛」 が深く関わっていることは紛れもないが、その実体はいまだ漠として定かではない。
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第2022回
「不機嫌な社会」 では、不機嫌の原因は思い通りに事が進まないことであって、この世は思い通りにいかないことばかりである。 ゆえに不機嫌の源泉もまた尽きることがないと書いた。
かかる不機嫌の源泉もまた、ここで論考した 「物理的な体の束縛や意識的な心の束縛」、「時間と空間の束縛」 等々が関わっているに違いない。
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また文豪、夏目漱石の小説 「草枕」 は、「智に働けば角が立つ、情に棹せば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角この世は住みにくい」
との慨嘆の言葉から始められた。 理屈で考えると他者とぶつかり、感情に任せると流されてしまう、意地を通そうとすれば窮屈になる、このように人の世では生きていく上で、免れることができない宿命のような困難があることをかく読者に示唆したかったのであろう。
しかり、かかる漱石の嘆きもまた 「逃れ難き」 さまざまな束縛に向けて発せられたものに違いない。 自由人への道は遥かである ・・
畢竟如何。
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