空海が説いた思想の要は 「即身成仏」 にある。
即身成仏をひとことで言えば、「この身のままで仏になる」 ということであり、そのためには 「仏として生きる」 ということである。
私はその 「即身成仏」 の思想を 「想像と現実の融合」 という思想に変換し 「即身」 と名付けた。 その意識跳躍が意味するところは以下のごとくである。 |
即身とは想像と現実の融合(一致)にある。 問題はその不一致をいかに克服して生きるに役立つ道具にするかである。
だがその克服はそう簡単ではない。 想像が過ぎれば 「現実は化石のよう」 になり、現実が過ぎれば 「想像は幽霊のよう」 になる。
想像と現実の一致の度合いに応じて、即身は人を化石から幽霊まで変化させる。化石も味気ないが幽霊もまた味気ない。 |
しかして、想像は自由に飛翔することができるが、その飛翔は現実によって制約されてしまう。
「現実はそうあまくはない、そんな夢のようなことを考えていたら食ってはいけない」 というときの 「食ってはいけないという現実」 が
「夢のような想像」 をたちまちに幻想へと貶めてしまうのである。 だが夢のようなことを想像しなければ、現実は変えられないこともまた事実である。
現実もまた想像によって制約されてしまうのである。 |
以上の構図を還元すれば、「現実は想像を制約するとともに、想像もまた現実を制約する」
となる。 また視点を換えれば 「想像がなければ現実はなく、現実がなければ想像はない」 となる。 前者の還元は 「想像と現実の対立」
を述べ、後者の還元は 「想像と現実の融合」 を述べている。 |
想像と現実の融合を喩えを使って述べれば、ある歌をある歌手が歌ったとき、その歌とその歌手が
「境目なくぴったりと融合している状態」 のようなものである。 そこには歌を超え、歌手を超えた 「何もの」 かが実現している。 それはすべてのことに瞬く間に遡及する。
作品と作家が境目なくぴったりと融合したときに芸術は 「何もの」 かに昇華するのであって、作品のみをもって、あるいは作家のみをもっては
「何もの」 かは生まれない。 畢竟。 想像と現実を区分けしてあれこれ考えたり、為したりしている状態では 「即身の実現」 はほど遠いということである。 |
空海の即身成仏の悟りに至る道は、認識を超越した意識跳躍を必要とするが、その神髄を会得することは空海の全生涯を体験するほどの困難さをともなう。
その神髄が言葉や認識でないところが難しいのである。 限りなく認識を追求した伝教大師最澄にして、その域に達することがかなわなかった訳とは実にそこにあった。
空海の天才。 最澄の秀才。 互いの道を分けたものはその才能の違いであった。 即身への意識跳躍とはかくのごとしである。 |
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