以下の記載は 第1863回 「実験的経路積分紀行〜どこにもいてどこにもいない」
からの抜粋である。
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量子の世界では、物質は波動性と粒子性という2重の性質をもっている。
但し、波動性を観測したとたんに粒子性は消え、粒子性を観測したとたんに波動性は消えてしまう。 同時に観測することはできない。 この状況を私的現実として説明すれば
「私という物質は観測されるまでは宇宙全域に波動のごとく広がっていて、どこにもいてどこにもいない状態である。 だがひとたび宇宙の局所で観測されるやいなや、波動性は消滅し(あらゆる可能性は消滅し)、粒子性としての私はその局所にしか存在することができない」
と表現される。
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量子の2重性を表現するもうひとつの方法は 「量子はあらゆる可能性を事前に試みる」
というものである。 たとえば台風の進路は進行方向に開いた扇形の確率で示されるが、我々が観測する進路はその中のたったひとつの進路のみである。
だが台風自身はその扇形の進路すべてをすでに事前に試みているのである。 この場合、扇形で示された確率的な進路が波動性であり、観測されたひとつの進路が粒子性にあたる。
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私は長きに渡って映像技術開発の素材を求めて故郷である信州各地を巡り歩いてきた。
つまり、私は波動のごとく信州全域に広がっていて、どこにもいてどこにもいない状態であった。 連載している 「信州つれづれ紀行」
には量子としての私の局所における位置プロットデータが表示されている。 この状況を物理学的な解釈をもって解説すると、私はこの信州紀行を始める時点で、すでに
「あらゆる可能なルートを試し終わっていた」 のであって、私の 「量子としての位置プロットデータの分布」 とは、始める時点ですでに試みられていた波動性の確率分布であったというものである。
量子は一瞬の刹那に時空を超えて 「あらゆる可能性」 を把握し、体験してしまうのである。 これから導かれる帰結は、人の一生とは、この世に生まれ出た時点において、確率的に可能なあらゆる人生がすでに試みられていて、「私の人生とは1個の粒子として生涯をかけてその波動性確率分布をトレースするにすぎない」
という 「運命論」 に近づいていく。
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以上の記載は 「ファインマンの経路積分」
から思考されたものである。 ファインマンは 「いろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれであって、すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至る」
と主張した。
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「出来事を時間の順序で並べるのは的はずれである」
というファインマンの主張は 「過去・現在・未来と連続する線形時間は存在しない」 とする私の主張と通底で一致する。 私の主張の意味するところは
「過去と未来は現在に含まれていて」 その中からある過去が、ある未来が、今の今である現在としての現実空間に象出するというものであり、それらがたどる運動軌跡は紙や意識のキャンパスに描くことはできても、実在としての現実空間に描くことはできないというものである。
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ファインマンの主張との相似性を私なりに等価変換すれば、以下のようになる。
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いろいろな出来事を過去・現在・未来で構成される線形時間を使って並べるのは的はずれであって、可能なすべての過去と未来を加算すれば実験者(私)が観察する現在に至る。
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そうであれば 「信州つれづれ紀行」 とは自らの体験をもって試行された
「実験的経路積分紀行」 と改題されてしかるべきである。 それはまた 「非局所的人生論」 の始まりである。
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