経過は目的を達するために通過する過程(道筋)であると考えるのが一般的である。
言うなれば、経過は目的のための手段であるとする考えである。 だがこの位置づけを逆転させて、経過を目的とし、目的を手段と考えると、様相は大分変わってくる。
経過を目的達成のための手段とすれば、通過する道筋はできるだけ短く効率的でなければならない。 だが経過を目的とすれば、手段としての道筋は必ずしも短く効率的である必要はない。
どこを通ろうが、迂回しようが、立ち止まろうが、いっこうにかまわない。 必要なことは、目的化した経過に意味があるかどうかである。
より哲学的に表現すれば、そこに 「自己実現の達成」 があるかどうかである。
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経過を目的達成のための手段と考えている現代人は、目的をのみ見つめて、日々拘束された最短で効率的な道筋を遮二無二に急いでいる。
それほどまで急いで 「いったいどこに行こう」 というのであろう。 そろそろ目的と経過を逆転させ、路傍に咲く 「ハコベの花」 を見つめるような生き方に転じるべきである。
かく眺めれば、この世は自在無礙な 「曼荼羅の世界」 に満ちている。 そこに遊ばないとはあまりにもったいない。 精神の拘束から解放された自由な世界への道は
「目的と経過の狭間」 に拓かれているのである。
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