Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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気分で生きる時代
 1997年に出版された 「不機嫌な時代」 という本がある。 著者は最高の知性と言われていたピーター・タスカである。 当時の書評は以下のようなものであった。
 混迷、停滞、閉塞感。 進化のメカニズムを見失った現代日本。 想像もつかない変化の波にもまれる日本はどのような未来へと向かうのか。 不確実性がエスカレートしていく時代において、マスコミや官庁や大企業やエコノミストが提供する社会モデルは崩壊してしまっている。 単純な楽観主義も、単純な悲観主義も、どちらも前途に待ち受ける難関や衝撃に備えることはできない。 陽はまた本当に昇るのか?
 それから20年ほどして、第973回 「不機嫌な時代」 で、私は以下のように書いた。
 社会世相は不機嫌な時代をもたらし、人々の心をいらだたせ、不寛容な精神が浸透しつつある。 最近のアンケート調査によれば、「生活が困窮した人を救済しなくともよい」 とする意見のもちぬしは、ヨーロッパのドイツ、フランス、英国等で7〜8%、日本では38%という。 ちなみに米国は20数パーセントである。 日本はいつから経済的合理性だけで価値判断するような社会になってしまったのか? このような社会では、仕事がある人が 「立派な人」 であり、ない人は 「駄目な人」 である。 その評価に能力はさして加味されない。 加味されるのは、かってのような氏素性であり、学歴であり、コネであり ・・ 等々である。 これら諸相の直接的な原因は、成長を続けてきた経済の行きづまりであるが、その根底には開拓すべき 「新たな地平」 が見つからないという 「精神的閉塞感」 が横たわっている。 開拓すべき地平がなく、経済成長が見込めない社会では、もはや能力さえも必要とされないということであろうか? (2016.10.18)
 それから10年ほど経過した現在。 世相は 「気分で生きる時代」 に遷りつつある。 不機嫌な時代から数えれば30年になろうとしている。 どうやら日本は 「単純な悲観主義」 より 「単純な楽観主義」 を選択したようである。 「大いなる悲観は大いなる楽観に一致す」 とは16歳で華厳の滝に身を投じた藤村操が 「厳頭之感」 に遺した一節ではあるのだが ・・ 畢竟如何。

2024.09.19


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