映画でも小説でも 「ヒーロー(主人公)」 は常に
「絶対的主観」 に基づいて生きている。 以下は 第361回 「絶対的主観」 からの抜粋である。
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客観から主観への転換は、単なる利己主義とは異なる。
利己主義とは、全体を客観的に眺め、その全体の中に個の位置を見出し、しかる後に、全体の中における個の評価を考える過程で発現する 「個の全体に対する主張」
である。
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絶対的な主観とは、全体から個を眺めるという経過を経ないで、個自らが全体を主体的に眺める主観である。
利己主義が全体と個の相対的主観であるのに対し、絶対的主観は予断なき全体と個の絶対的主観である。
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相対的主観による現実把握は、現実世界のあらゆる存在を全体の
「共有物」 であると考えるのに対し、絶対的主観による現実把握は、現実世界のあらゆる存在を個の 「専有物」 であると考える。 相対的主観による現実把握とは
「全体に与えられた現実世界」 という視点であり、絶対的主観による現実把握とは 「個に与えられた現実世界」 という視点である。
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全体に与えられた現実世界という視点で構築された典型的社会思想が、存在の全体による共有化を追求した
「社会主義思想」 であり、個に与えられた現実世界という視点で構築された典型的社会思想が、存在の個による専有化を追求した 「自由主義思想」
である。
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社会主義思想はソ連邦の崩壊が示したように、その相対的主観がゆえの矛盾により破綻し、自由主義思想もまた米国の状況が示すように、絶対的主観とは似て非なる独善的利己主義が横行する相対的主観に陥りつつある。
今求められる絶対的主観とは、曖昧模糊とした疑似的主体性ではなく、確固たる個の自律と責任の上に築かれる絶対的主体性から生まれる絶対的主観である。
(2003.9.29)
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映画や小説の中で絶対的主観で生きるヒーローが
「渇望される理由」 は現実世界に生きる人々の多くが独善的利己主義や擬似的主体性で偽装された絶対的主観に陥っているからに他ならない。
民衆は常にその 「真贋」 を見抜いているのである。
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