秘密曼荼羅の世界を永遠の生命として生きた、空海の
「どこにもいてどこにもいない」 とする生き方は 「究極の自由」 を体現したものであろう。 あらゆる拘束から脱した自在無礙を目指せば、かくなる生き方に漂着することは、空海にとってみれば
「必然の帰結」 であったにちがいない。 それはまた、即身の道の 「終着点」 でもあった。 存在を求めず ・・ 完成を求めず ・・
しかして、時間と空間をも超越した躍如たる 「空海の風景」 である。
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以下の記載は 第220回 「永遠回帰と無限変身」
からの抜粋である。
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永遠回帰は哲学者ニーチェが人生最後に行き着いた思想である。
我々は同じ人生を何度も何度も繰り返す。 二度と経験したくないつらいことも、この上なき至福の時も何度も戻って来る。 時間は円環を成し、未来に向かうと過去に至り、過去に向かうと未来に至る。
物事は永遠に回帰し、やがて再び戻って来る。 ニーチェは 「時よ止まれ、この幸福よ永遠なれ」 と一度でも願ったことがあれば、その人は永遠回帰を認めたのだと言う。
円環を成す時間構造は、そう願った至福の地点に、未来に向かっても、過去に向かっても、ともに再び回帰して来る。 このニーチェの永遠回帰の思想は、人間の
「時間の束縛」 からの脱出であると、ニーチェ哲学の研究者で私の盟友でもある関西学院大学社会学部教授、宮原浩二郎は言う。 さらに彼は
「空間の束縛」 からの脱出としての 「無限変身」 という思想の可能性を提示する。 この永遠回帰と無限変身の2つの思想によって、人間が決定的に拘束されている
「時間」 と 「空間」 からの離脱が可能であるとする。
我々が 「このようである」 という存在性は、突きつめると 「空間の束縛」 に至る。 私が日本にいて、私がこのような名前で、私がこのように生きていることとは、つまりは空間の束縛のなせる業である。
もし私が他の何者かに変身できるとする。 例えば哲学者ニーチェに、あるいは詩人ハイネに、また犬や猫に、そしてスーパーマンにと無限に変身できるとするならば、もはや空間の束縛は存在しない。
ニーチェはイタリアの北部ポー河の畔、古都トリノで精神崩壊に至った。 宮原教授はニーチェがこの精神崩壊に至る人生最後の過程で、彼自身の身をもって、この無限変身の状況に帰着していたのではないかと言う。
もしそれが事実であるならば、彼は 「永遠回帰の思想で時間を突破」 し 「無限変身の思想で空間を突破」 したことになる。 時間と空間の束縛から解放されることが、人間にとって究極の自由と自立であるならば、彼の哲学はその究極に行き着いたことになる。
ニーチェの身に起きた精神崩壊という現象は、単なるニーチェ自身の遺伝子が背負った精神病理質に起因した現象であったのか? はたまた、妥協を許さない厳しい彼の哲学が至らしめた時間と空間の超越現象であったのか?
永遠の時空の彼方にニーチェが去ってしまった今となっては、これもまた 「永遠の謎」 である。 (2002.10.28)
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今思えば、空海の 「即身の思想」 が行き着いた
「究極の自由」 は、哲学者ニーチェの 「永遠回帰の思想」 や、宮原教授の 「無限変身の思想」 が行き着いた 「究極の自由」 と根底で一致するものであったのだ。
別々の道をたどって、宗教と哲学が同じ地点に至るとは 「何とも不可思議な邂逅」 であって感慨無量である。 曰く、「どこにもいてどこにもいない」
とは 「無限変身の実体」 を表していたのである。
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