Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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この大をはかる〜優雅なる異端
 世界から正義が失われようとしている。 まかり通るのは権力であって、現れるのはむき出しの欲望である。 はたして、流れを止めることはできるのか?
 失望することはない 「優雅なる異端」 の時代がやって来たのである。 優雅とは金に任せて贅沢三昧をすることではない。 それは、愚かなことに荷担しないことであり、生きる意味がわかっていることであり、善と悪を見抜けることであり ・・ しかして、世の脅迫や恫喝に屈しない強靱な精神と動じない心をもっていることである。
 人は物質的存在であるとともに精神的存在でもある。 物質的にはちっぽけであっても精神的には際限なく大きい。 その大きさは、ときとして宇宙をも凌駕するほどである。 優雅なる異端を実践した空海の 「大いなる精神」 は片隅にあって尚、世界を動かし得たのである。
 何かを得ようとすれば何かを失うは世の常である。 全てが得られるわけではないが、全てが失われるわけでもない。 目指すは 「ゆるぎない自己」 の完結であって 「ゆるぎない生活」 の完成ではない。
 万物事象は 「あざなえる縄の如く」 であって、「禍福は一体」 である。 その中にあって、勝者ばかりを目指す世界とは、片極だけの世界を構築しようとする試みであって、やがては徒労に逸する。 1枚の紙は 「表裏」 で構成されるのであって、表だけや裏だけの紙など存在しないのである。 かくなる宇宙の真象(内蔵秩序)を見失った現代人は、あるいは希にみる 「おおばかもの」 なのかもしれない。
 今の世界を俯瞰すれば、各国の指導者の多くは勝つことばかりを考えて負けることを学ぼうとしない。 勝つためには手段を選ばないという頑なな姿勢はかくなる愚かさの明かしであろう。 どうやら人類は大いなる視野の狭窄に陥ってしまったようである。 その狭窄があまりにも大きすぎて確と自覚されないだけである。 窮まった世界を突破する妙薬は 「賢く勝つ」 ことではなく 「賢く負ける」 ことである。 負けることも、ときには優雅であって 「かっこいい」 ものである。 優雅なる異端の心髄はそこにある。
 
(※)以下蛇足ながら
 表題に冠した 「この大をはかる」 とは、旧制一高生であった藤村操が、日光華厳滝での投身自殺を前にして、巌頭にあった大きなミズナラの樹肌を削って書き残した 「巌頭之感」 にある 「五尺の小躯を以て此大をはからむとす」 から採ったものである。 享年18歳、満16歳10か月の若さであった。
 
「巌頭之感」
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。 ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。 萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。 始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。 (明治36年5月22日)
 
 その藤村操と同窓であった岩波茂雄(岩波書店創業者)は、その若き日を綴った 第1706回 「思い出の野尻湖」 の中で以下のように語っている。
 岩波茂雄が実科中学を卒業して一高へ入学した当時は憂国の志士をもって任ずる学生が 「乃公(ダイコウ)出でずんば蒼生をいかんせん」 といったような、悲憤慷慨の時代は過ぎて、「人生とは何ぞや、我は何処より来りて何処へ行く」 というようなことを問題とする内観的煩悶時代を迎えていた。 「立身出世」 とか 「功名富貴」 などという言葉は男子として口にするさえ恥ずべきであり、「永遠の生命」 とか 「人生の根本義」 のためには死もまた厭わずという時代であった。
 この風潮に決定的な刺激を与えたのが、明治36年(1903年)5月22日の 「藤村操投瀑事件」 である。 藤村は当時18歳、岩波より1年下の哲学科1年生で、たがいに顔なじみの仲であった。 その藤村が突然、母と二弟一妹を残して日光の華厳の滝に身を投じ永遠に帰らなかった。 死に臨んで藤村は瀑上の大樹を削って 「巌頭之感」 を書き残した。
 これほど若い青年学徒にとって晴天の霹靂だったことはない。 まして日々、藤村と接していた一高生にとって、さらに同じ悩みを語らっていた友人にとって、名状しがたい衝撃であった。 それは驚愕というよりは寧ろ、一種の羨望であったかもしれない。 友人の中でも林久男はほとんど狂せんばかりに動かされ、学校にも行かず、寮を出て、雑司ケ谷の畑の中の一軒屋に昼間でも戸を閉めたままこもっていた。 同じ悩みを抱く岩波は渡辺得男とつれだって慰問に行ったが、三人は 「巌頭之感」 を誦しては泣くばかりだった。 それがあまりに激しかったので、友人は悲鳴窟と呼んだ。 藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であった。 巌頭之感は今でも忘れないが、当時これを読んで涕泣したこと幾度であったか知れない。 友達が私の居を悲鳴窟と呼んだのもその時である。
 死以外に安住の世界がないと知りながらも自殺しないのは真面目さが足りないからである、勇気が足りないからである、「神は愛なり」 という、人間に自殺の特権が与えられていることがその証拠であるとまで厭世的な考え方をしたものである。
 感傷的な気分にかられた岩波は、静思の機会を求めて大自然のふところへ飛びこんで行った。 求めた場所は郷土信濃の北奥、野尻湖であった。 明治36年(1903年)夏のことである。
 
 以上の記述は 「この大をはかる」 という哲学思想が、当時の青年達にとっていかなるものであったのかを如実に語っている。 他方。 現代は 「この小をはかる」 青年達ばかりであって、その隔世の感はひとしおである。

2024.05.19


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