これほど若い青年学徒にとって晴天の霹靂だったことはない。
まして日々、藤村と接していた一高生にとって、さらに同じ悩みを語らっていた友人にとって、名状しがたい衝撃であった。 それは驚愕というよりは寧ろ、一種の羨望であったかもしれない。
友人の中でも林久男はほとんど狂せんばかりに動かされ、学校にも行かず、寮を出て、雑司ケ谷の畑の中の一軒屋に昼間でも戸を閉めたままこもっていた。
同じ悩みを抱く岩波は渡辺得男とつれだって慰問に行ったが、三人は 「巌頭之感」 を誦しては泣くばかりだった。 それがあまりに激しかったので、友人は悲鳴窟と呼んだ。
藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であった。 巌頭之感は今でも忘れないが、当時これを読んで涕泣したこと幾度であったか知れない。
友達が私の居を悲鳴窟と呼んだのもその時である。
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