Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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風景の物語
 自然が偉大で素晴らしいのは 「変わらないこと」 である。 かって訪れた高原を湖を森を川を再び訪れても何も変わらずにそこにある。 「変わる」 のは訪れる私のほうで、その時々の状況や心もちでそれらの自然風景がさまざまに変わって見えるのである。 もしその折に撮影した写真に日付を記載しなければ撮影した私をのぞいてその 「切り取られた自然風景」 の時系列を判定することは誰もできないであろう。
 私たちが使っている時系列は 「過去・現在・未来」 と連続する線形時間で構成され、時間は過去から現在へ現在から未来へと流れている。 だが過去は記憶で創られた意識世界であり、未来は想像で創られた意識世界であるが、現在は運動をともなった物質世界であって、過去や未来とは本質的に異なっている。 それは意識の源泉である記憶力や想像力を失えば意識世界である過去や未来はたちどころに消失してしまうのに対し、記憶力や想像力を失ったとしても物質世界である現在は厳然とした実在として存在していることを考えれば素直に了解されることであろう。 ではかくこのように異質な意識世界と物質世界を貫いて 「同質的な時間」 が連続して流れていることを、どのような妥当性をもって考えたらいいのであろう?
 私は過去や未来は 「現在に含まれている」 のではないかと考えている。 私がとある場所(現在場)を訪れたとき、その現在場(自然界)の中に含まれていた私の過去や未来の意識場が象出することで、内なる意識世界に時間の流れが生まれ、「とある物語」 が構成されるのである。 他方、私をとりまく運動をともなった物質的な自然界(現在場)には時間は存在せず、「物語の背景」 としてただ存在しているにすぎない。
 「信州つれづれ紀行」は、かくして構成された 「とある物語」 が投影した 「風景の物語」 である。 しかし、その物語が私の過去や未来の意識場から構成されることをもってすれば、それはまた、私自身の 「風景の物語」 でもあるのだが。

2024.05.17


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