Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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物質的社会から意識的社会への相転換
 決定論的物理学から確率論的物理学への相転換はまた 「物質的物理学から意識的物理学への相転換」 でもあった。
 「宇宙は現象である」 と言ったジョン・アーチボルト・ウィーラー(米1911〜2008年)はニールス・ボーアの弟子にしてアルベルト・アインシュタインの共同研究者でもあった 「詩心をもった物理学者」 である。 「ワームホール」 や 「ブラックホール」 の命名者としても知られている。 ウィーラーは 「現実はすべて物理的なものではないかもしれないと問題提起した」 最初の物理学者である。 我々の宇宙は 「観測行為と意識を必要とする参加方式の現象」 かもしれないというのである。 ウィーラーは 「人間原理」 の普及にもひと役かった。 人間原理とは 「宇宙がこのような状態になっているのは、もし他の状態だったら人間がここにいて宇宙を観測することができないから」 という人間主体の原理である。
 ウィーラーの提起はシュレジンガーの波動理論における観測問題から導かれたものである。 その観測問題とは以下のようなものである。
 量子論の基礎を構成するシュレジンガーの波動方程式では、観測により波動関数が収縮し、「ひとつの宇宙」 が象出することを述べている。 観測が為されるまで、宇宙は無限の可能性を秘めて霞みのごとく広がっているが、観測が為された瞬間、宇宙はその観測に応じた 「たったひとつの宇宙」 に収縮するのである。 例えて言えば、私がある人から観測されないかぎり、そのある人から見た私は松本市の全域に霞のごとく広がっている状態であり、松本市のいかなる所にも存在し、またいかなる所にも存在しない状態であり、そのある人が私を松本駅前で観測した瞬間、すべての可能性は消え、たったひとつ、つまり、松本駅前に私が存在する宇宙に収縮するのである。 この波動方程式の波動関数の収縮は 「ネズミの観測」 や 「酔っぱらいの観測」 では起きないことは重要である。 この収縮が起きるのは人間による 「意識的観測」 のみであって、ネズミの意識や、酔っぱらいの意識では宇宙は収縮しないのである。 量子論は、まさに 「この宇宙が人間意識により発生する」 ことを述べているのである。 覚醒せる人間意識の観測のみが、あらゆる可能性の海であるカオス状態(混沌)の中から、「あるひとつの宇宙を出現させる」 のであり、もし覚醒せる人間意識が存在しなければ、この宇宙は霞のごとき混沌状態のままに保たれ、このような現実は存在しないことになる。 結局。 「量子もつれの実証」 がもたらした物質から意識への大転換は 「宇宙が人間の意識的観測によって存在する」 という意識的存在論の妥当性を述べているのである。 化石でも幽霊でもない人間の存在理由は実に 「ここ」 にあるのである。
 以上を考える時、「知的冒険エッセイの主題」 である 「意識が物質を発生させるのか? それとも、物質が意識を発生させるのか?」 という根本義の何たるかが見えてくる。 かくなる私の根本義としての懐疑はまた 「物質と意識の結びつき」 を研究した物理学者、ロジャー・ペンローズ(イギリス1931年〜)の代表作 「皇帝の新しい心」 の語るところに一致する。
 「皇帝の新しい心」 は発表されるやいなやセンセーショナルな論争を巻き起こした。 ペンローズは 「皇帝の新しい心」 の中で、意識を解明する鍵は、物理学の2大理論である 「量子論」 と 「相対論」 の狭間に隠されているとした。 量子論の創始者、ニールス・ボーア(デンマーク1885〜1962年)と相対論の創始者、アルベルト・アインシュタイン(ドイツ1879〜1955年)以来、世界の物理学者はこの2つの理論をまとめた 「統一理論」 を導きだそうと懸命に試行錯誤を続けてきたが、いまだにまともな解答を得るには至っていない。 ペンローズの理論が特徴的であるのは 「統一理論のあるべき姿がいかなる思考から生まれるのか」 という従来の物理学にはなかったアプローチ方法の違いにある。 彼の理論は多分に荒削りではあるものの、もし彼の言うことが正しいとすれば、物理学の理論を一挙に統一するとともに、哲学の最難問とされる 「物質と意識の結びつき」 を解決する可能性を秘めている。 現在、統一理論に最も近いとされている理論とは 「超ひも理論」 である。 超ひも理論では10次元空間の中のひもの振動が宇宙のすべての物質とエネルギ、はたまた空間と時間まで生み出すとされている。 世界の著名な物理学者の多くは超ひも理論こそが 「統一理論」 であると考えているが、ペンローズは 「ひも理論は正しいはずがない」 と考えている。 彼は自他共に認めるプラトン主義者であり、科学者は真理を 「発明」 するのではなく、すでにあるものを 「発見」 するのだと考えている。 真理には 「美しさ」、「正しさ」、「明快さ」 を感じさせる 「何か」 が備わっているものであって、超ひも理論にはその 「何か」 が欠けているというのである。 確かに超ひも理論は量子論と相対論を数学的には矛盾なく説明してくれるが、現実空間の中で実験できるものでもなく、そもそも10次元のミクロのひもの振動が何を意味しているのかも不明である。 ペンローズは超ひも理論は物理学者が 「発明」 したしろものだと言いたいのであろう。
 「皇帝の新しい心」 には書かれてはいないが、ペンローズはきっとかく言いたかったのではあるまいか? 「意識が物質を発生させるのか? それとも、物質が意識を発生させるのか?」 しかして 「意識に物質が宿るのか? それとも、物質に意識が宿るのか?」 と。 そうであれば、「この問い」に答えることこそが 「統一理論」 に至る 「究極の道筋」 なのかもしれない。

2024.02.16


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