つまり、時間は人間の主観的な意識場において流れていることが保証されても、現在のような客観的な物質場において流れているかは保証されない。
私は過去や未来は線形に配列されるものではなく 「現在に含まれている」 のではないかと考えている。 その考えに従えば、信州つれづれ紀行で描かれた津々浦々の風景は、私がその現在場を訪れたことで、自然風景の中に含まれていた私の過去や未来の意識場が現在に象出することで発生した内なる時間の流れが紡いだ
「自らの風景」 の物語なのではあるまいか? 他方、私をとりまく自然には 「時間は存在せず(流れず)」、運動する風景として、ただそこに存在しているだけなのではあるまいか?
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