Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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大いなる錯覚からの覚醒〜正法眼蔵
 時間が 「過去→現在→未来」 と連続して流れるという線形時間を廃棄することには応分の意識跳躍を必要とする。 以下はその意識跳躍を果たした宗教家の話である。
 曹洞宗を拓いた道元が著した 「正法眼蔵」 に 「而今(じこん)」 という言葉が登場する。 而今とは 「今この一瞬」 の意である。 道元は 「過去もなく、未来もない、ただ今があるのみ、今の刹那を生きるのだから、何をするにしても心を込めなさい」 と諭した。 さらに、「正法眼蔵」 の 「有時(うじ)」 の巻では独特の時間論を展開している。 「有時」 は 「有る」 という字に 「時」 と書く。 この 「有る」 は 「存在」 のことで、人間に焦点をあて、「有時」 と一語にしたのは、自分を抜きにして時は存在し得ないということを表現しようとしたからである。 その中で道元は 「時はひとりでに過ぎ去っていくものだと考えてはならない」 と述べている。 また 「一瞬一瞬に自分という存在を滑り込ませつつ時は生み出されていくものである」 とも述べている。 かくして道元は 「この自分という存在と一体の時間を生きる今」 とはどうあるべきかを問いかけ、而今としての 「今この一瞬」 の時間としっかりと向き合って生きる時、その人にとっての時間とは、単に一方向に過ぎ行く流れではなくなり、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開されていくものとなると結言した。 以上の 「而今」 や 「有時」 で述べられた 「道元の時間論」 は時間が 「過去→現在→未来」 と連続して流れるという線形時間を廃棄したときに現れる、時間が流れない 今の今 という 「現在だけの世界」 を述べているかのような感懐を覚える。
 大いなる錯覚からの覚醒には 「大いなる意識跳躍」 を必要とするが、その意識跳躍には 「相似性」 が伴っている。 それはファインマンにして、道元にして、またかく言う私にして、しかりである。 私が 「シンプルな宇宙」 で提示した 「過去や未来は現在に含まれている」 とする考え方は、ファインマンの経路積分が提示した 「いろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれであって、すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至っている」 とする考え方に相似し、道元が提示した 「時間とは、単に一方向に過ぎ行く流れではなくなり、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開されていく」 とする考え方にそれぞれ相似する。 それらの相似性の中に大いなる錯覚からの覚醒をもたらす 「意識跳躍の何たるか」 が垣間見えている。

2024.02.06


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