Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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頭のいい人と悪い人
 以下は寺田寅彦の随筆 「科学者とあたま」 からの抜粋である。
 いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。 人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。 頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。 頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。 富士はやはり登ってみなければわからない。 頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。 その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」 かのように考える恐れがある。 まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。 これでは自然科学は自然の科学でなくなる。 一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。
 以下は 第490回 「野に遊ぶ」 からの抜粋である。
 線の旅人は点と点の間に引かれた線の上を行く 「1次元世界の旅人」 である。 ここで言う点と線とは、例えば、点とは観光地や名所旧跡等のビュースポットであり、線とはこのビュースポット A とビュースポット B をつなぐルート(道路や線路等)である。 1次元世界とは線の世界であり、旅の自由度はその線上を行くか、戻るかの 「2通り」 しか許されない。 面の旅人は面の上を行く 「2次元世界の旅人」 である。 ここで言う面とは、例えば、地球の表面である。 2次元世界とは面の世界であり、旅の自由度はその面上360度方向 「無限に」 許される。 線の旅人は、目的地(点:例えば観光地AやB)を定め、かかる目的地に向かって、しゃにむに街道(線:例えば東海道)を急ぐ旅人である。 面の旅人とは目的地(点:例えば観光地AやB)を定めず、街道(線:例えば東海道)をはずれ、雲の流れるまま、気の向くまま、あちこちと回遊する旅人である。 線の旅人が街道(線)より目的地(点)を重要視するのに対し、面の旅人は逆に目的地(点)より街道(線)を重要視する。 大別すれば、線の旅とは 「目的達成への旅」であり、面の旅とは 「自己充実への旅」 である。 戦後始まった高度経済成長社会の中で、日本人はしゃにむに宿場から宿場へと 「街道を急ぐ」 線の旅人であった。 しかし、その経済成長も一段落し、当初の目的もある程度達成されたこれからは、街道をはずれ 「野に遊ぶ」 面の旅人の姿が、地球表面のそこかしこに散見されることになるであろう。 (2004.10.28)
 随筆 「科学者とあたま」 が提示する 「頭のいい足の早い旅人」 とは、言うなれば 「野に遊ぶ」 で描いた 「1次元世界をゆく線の旅人」 である。 また 「頭の悪い足の遅い旅人」 とは、同じように 「2次元世界をゆく面の旅人」 である。
 また以下の話は私がとある機械工学分野の技術士から聞いた話である。
 彼がアメリカで見てきた 「パラレルメカニズム」 という新技術について、某有名大学の機械工学科の某教授に話したところ、某教授は 「あのメカニズムは理論的には動かない」、「もし動いていたとしたら動いていることが間違いだ」 と断言したというのである。 ウソのような本当の話である。
 それはまさに随筆 「科学者とあたま」 が提示する 「自然のほうが間違っている」 かのように考える 「頭のいい人」 の挙動に一致する。 理論は現象を過不足なく妥当性をもって説明するために人為的に考え出されたものであって、考え出された理論によって現象が起きるわけではない。 現象はいかなる人為からも隔絶しているのであって、科学がいかに混みいってきたからといって、この順位が逆転することはない。 だが現場を離れ、机上の論理ばかりを弄んでいるうちに、起きるはずがないとした逆転が起きてしまうのである。
 随筆 「科学者とあたま」 の末尾を寺田は以下のように結んでいる。
 最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。 それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。 科学は孔子のいわゆる 「格物」 の学であって 「致知」 の一部に過ぎない。 しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。 芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない。 そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。 理屈ではない。 そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。 これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。 この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。 またこれを読んで会心の笑えみをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。 これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。 (昭和八年十月)
 以下は 第1695回 「大隠は朝市に隠る〜陸沈の人」 からの抜粋である。
 評論家、小林秀雄が、あるとき英国に長く生活していた人に隠居に相当する言葉が西洋にもあるかをたずねた。 彼はそれは 「country gentleman」 のことだと答えた。 それを聞いた小林は、日本では隠居は隣にいるか横町にいるに決まっている。 田舎になどに逃げ出す隠居にろくな者はいないと笑ったという。 孔子は 73歳 で死んだ。 彼は 15歳 で学に志してから幾つかの年齢の段階を踏み 70歳 で学が成就した。 彼はそれを単に学問的知識を殖やすのに時間がかかると言ったのではない。 年齢は 「真の学問」 にとっては、その 「本質的な条件」 を成すと言ったのである。 世の中は暮らしてみなければ納得できない事柄に満ちている。 肝腎なことは誰もが世の中に生きてみてはじめて納得するのである。 しかして、孔子の学問には、科学がすっぽりと抜け落ちている。 彼にとっては、太陽が東から上り、水が低きに流れることなど、学問を待つまでもなく 「解り切った話」 であった。 孔子は 「生きる」 という全的な難問を勝手にひねり出したのではない、ばったり 「出会った」 のである。 孔子は隠士(隠居)を 「陸沈」 という言葉を使って説いた。 世間に捨てられるのも、世間を捨てるのも易しいことだ。 また、世間に迎合するのも水に自然と沈むようなもので、もっと易しいことだ。 最も困難で積極的な生き方は、世間の直中に、つまり水無きところに 「沈むこと」 である。 しかして、かくなる現実主義は年齢との極めて高度な対話によって、なされると孔子は考えたのである。 是即ち 「大隠朝市(大隠は朝市に隠る)」 である。 大隠は朝市に隠るとは、真に悟りを得た隠士は、山中などにでなく、人の集まる俗世間にて、一般の人と同じように暮らしているものだ。 本当に高尚な人物は、人付き合いを避けたりせず、世間でふつうの人々と一緒に暮らしているものだ ・・ 云々。 (2022.12.08)
 以上。 なにげなく読んだ寺田寅彦の随筆に感じた 「不可思議な共時性」 について書き記した次第である。

2024.01.23


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