Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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閉塞社会の原因とは〜大きな間違い
 2024年の元旦。 能登半島を襲った大地震から始まった日本社会はかってない程の閉塞状態に陥っている。 かくなる閉塞の原因はどこにあったのか? その原因が解らなければその脱出もまた不可能である。 探求は 「日本列島誕生に起因した地殻構造」 から始められてしかるべきであろう。
巨大断層の胎動〜日本列島の構造を探る
(日本列島の地殻構造については上記ページを参照)
大きな間違い / 2013.08.06
 間違いも大きくなると 「どこが間違いなのか」 わからなくなる。 アベノミクスを推進する安倍政権は今、経済の成長をトップにすえて、あらゆる努力をこの成長策に注ぎ込み、TPP交渉に、原発再稼働にと邁進している。 だが日本の現状をつぶさに眺めれば、いたるところに傷を負って、惨状は目を覆うばかりである。 東北大震災の復興は遅々として進まず、原発事故の復旧はめどがたたないばかりか、日増しに事態は悪化しているようにみえる。 地球温暖化に端を発した猛暑と豪雨は列島各地にさらなる被害と被災者を生み続けている。 この状態で東北大震災クラスの地震が、首都直下を、あるいは東海沖を襲ったら、その被害は日本国にとって、もはや立ち上がれないほどの致命傷となろう。 経済の成長どころの話ではない。 政府の成長政策の底流には、そのような 「大震災は発生しない」 とする不作為然とした暗黙の了解が横たわっている。 それは原発事故は発生しないとして原発政策を推し進めた 「安全神話の構図」 と何ら変わるところはない。 現下の日本において、経済が成長しなかった場合の被害と、かくなる大震災が発生した場合の被害を比較して考えてみたらいい。 それでも経済の成長が優先だとすれば、それはもはや 「命を賭けたギャンブル」 を国民に強いるに等しい。 命を賭けたギャンブルが政策たり得るかいなかは、国民の判断が分かれるところであろう。 しかしてかくなるギャンブル政策を回避したいとするならば、「大震災が発生する」 ことを前提にした政策に転換すべきである。 私案として策の1例をあげれば 「首都機能の地方分散」 である。 この政策はかかる災害時のリスクを分散させる目的だけでなく、情報化技術が発達した現在、国家の統御機能を1カ所に集中させる必要性が低下していることにも対応している。 「地球温暖化」、「少子高齢化」、「地方の活性化」 ・・ 等々、あらゆる角度から衆知を結集して 「日本の将来像」 を思いが至る限り、存分に考えたらいい。 アベノミクス政策のように矢継ぎ早に進める必要などまったくない。 大きな間違いに気づくには 「これで充分」 である。 加えれば、これこそが 「災い転じて福となす」 という逆転の1手である。 古来、国家の命運を拓くに用いられてきた 「遷都」 という伝家の宝刀がようようにして形を変えて現代に蘇るときがめぐってきたのである。
天災は忘れる前にやって来る〜不作為の作為 / 2018.07.09
 長く続いた集中豪雨はかってないほどの多大な被害を西日本全域にもたらし過ぎていった。 やはりこの状況は 「異常」 である。 異常気象の原因とされている地球温暖化に歯止めがかからなければ、かくなる災厄は 「過ぎ去ったのではなく 間隔を置いて再びやってくる」 に違いない。 寺田寅彦が 「天災は忘れた頃にやって来る」 と言った時代は彼方に去り 「天災は忘れる前にやって来る」 時代になろうとしている。 寅彦は人間に内在する 「油断」 を戒めるために 「天災は忘れた頃に」 と警告したのである。 だが天災が 「稀有なる災害」 から 「日常なる災害」 に変質してしまうと寅彦の警告は無効に逸してしまう。 「天災は忘れる前にやって来る」 とは私の脳裏に浮かんだ 「アフォリズム(警句)」 であって、実に 「不作為の作為」 を戒める言葉である。 不作為の作為とは 「そうなると分かっているのに何もしない」 という現代人が内在する特有の 「怠惰」 のことである。 「油断」 と 「怠惰」。 人間にとっていったいどちらが 「大敵」 なのであろうか?
崩壊は忘れた頃にやってくる / 2023.04.05
 「天災は忘れた頃にやってくる」 とは寺田寅彦の警句である。 近頃は 「崩壊は忘れた頃にやってくる」 という警句が、日々、説得力を増している。 土地は下がることはないとしていた 「土地神話の崩壊」、原子力は安全であるとしていた 「安全神話の崩壊」 は、ともに忘れた頃に突然やってきた。 そうであれば、日本国債はデフォルトしないとしている 「経済神話の崩壊」 もまた 「忘れた頃に突然やってくる」 のかもしれない。 ただひとつ、確定的なことがある。 そのとき、人は言うであろう 「それは想定外だった」 と、これだけは確かである。 なぜなら、「想定外」 という方便は、不作為の作為に終始する者が用意している 「最強の免罪符」 であるとともに、「最後の切り札」 であるからに他ならない。
 しかして、2024年の元旦に起きた能登半島大地震は、「忘れる前にやって来た」 不作為の作為であったのか、それとも 「忘れた頃にやって来た」 天災であったのか? 未だ漠として確と判定できない。

2024.01.07


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