Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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思いの風景とは
 詩人とは、縁の総量から抽出した思いの風景を 「描きて語らう者」 なのではあるまいか? 以下の2編の詩は 「夢みたものは〜立原道造のこと」 から抜粋したものである。 いずれも詩人であった立原道造の生活の中にあった縁が紡いだ 「思いの風景」 である。
  のちのおもひに / 立原道造
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
― そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた・・・・

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
  夢みたものは / 立原道造
夢見たものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛
山並みのあちらにも しずかな静かな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざって 唄をうたっている
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘が 踊りをおどってる

告げて うたっているのは
青い翼の一羽の小鳥
低い枝で うたっている

夢見たものは ひとつの愛
ねがったものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
 また以下の歌詞は、第874回 「井上陽水の世界〜なぜか上海」 からの抜粋である。 この歌詞の世界もまた井上陽水の生活の中にあった縁が紡いだ 「思いの風景」 である。
  なぜか上海 / 井上陽水
星が見事な夜です
風はどこへも行きます
はじけた様な気分で
ゆれていればそこが上海

そのままもそ もそ も もそっとおいで
はしからはしのたもと お嬢さん達
友達さそ さそ さ さそっておいで
すずしい顔のおにいさん達

海を越えたら上海
どんな未来も楽しんでおくれ
海の向こうは上海
長い汽笛がとぎれないうちに

流れないのが海なら
それを消すのが波です
こわれた様な空から
こぼれ落ちたとこが上海

いまからまそ まそ ま まそっとおいで
ころがる程に丸いお月さん見に
ギターをホロ ホロ ホ ホロッとひいて
そしらぬ顔の船乗りさん

海を越えたら上海
どんな未来も楽しんでおくれ
海の向こうは上海
長い汽笛がとぎれないうちに
海を越えたら上海
君の明日が終わらないうちに
 はじけた様な気分でゆれていれば 「そこが上海」 というのだが、「なぜ上海なのか」 は意味不明である。 以降、次々にイメージが現れては消えていく。 こうでなくてはならないというような拘束条件はいっこうに感じられない。 それどころか時間も空間も、さらには言葉さえも超越してしまっているかのようである。 まったくの自由な世界である。 作者である陽水でさえ時空間に浮遊しているかのようで、どこにもいてどこにもいない。 意図なき物語を、人はいかなる意図をもって、考えることができようか ・・ ただ感じるだけである。 このような作詞の世界は陽水独自のものであって、誰もがまねできるものではない。 それどころか陽水自身が自問してみても的をえた答えは返ってこないのかもしれない。 それは 「メロディに乗って彼方からやって来た」 というのが正直なところではあるまいか。
 縁の総量から生まれる思いの風景は、かくも豊饒なる 「曼荼羅の世界」 である。 その曼荼羅のどこに生まれ、どこに遊ぶかは、もろびとに与えられた自由な人生の賜なのである。

2023.11.23


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