第 3 集 の表題を 「時代の風景」 としたのは 「それぞれの時代」 が絵画のように切り取られた
「風景」、言うなれば 「場面」 であったからである。 時空は時間軸に平行な時間が継続する 「連続の世界」 と、時間軸に垂直な時間が断裂(時間
0 の)した 「刹那の世界」 で構成されている。 とかく我々は時間が継続する 「連続世界」 を上位に置きたがるが、「記憶にのこる世界」
とは意外にも時間が断裂した 「刹那世界」 なのである。 「時代」 とは時間が継続する連続世界であり、「場面」 とは時間が断裂した刹那世界である。
つまり、「記憶にのこる永遠性」 とは、時間が断裂した刹那のワンカットである 「場面」 の中に象出しているのである。 「○○の風景」
と題した所以は、実にここにある。 かかる風景の中でこそ、人は永遠の生命に昇華し、生き続け、語り継がれていくのである。 また時間が継続する
「連続世界」 が水平的に連なった、言うなれば 「広さ」 の世界であるのに対し、時間が断裂した 「刹那世界」 は世界が垂直的に重なった、言うなれば「深さ」の世界である。
連続世界である時代から切り取られた刹那世界のワンカットである場面(風景)には、さまざまなものが重層して秘められているのである。
であればその 「珠玉のワンカット」 を時代から抽出することは困難を極めるのではないかということになるが、そんなことはない。
いかなるワンカットを抽出しようが、その場面(風景)の中には、その人の 「すべて」 が含まれているのであって、宇宙の真理のごとき
「素顔」 がそこに象出しているのである。 だがその象出した素顔をいかに 「描写」 するかには多大な困難がともなうのだが ・・。
(2015.10.21)
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