未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
知は行動をもって実在が証明される
陽明学の祖、王陽明が提唱した 「知行合一」 の意は、知って行わざるは知らぬと同じであり、「知は行動をもってその実在が証明される」 ということである。 その合一が 50:50 であるならば、その意は、行って知らざるは行わぬと同じであり、「行動は知をもって実在が証明される」 ということに変換される。 それを実践で表現すれば、「知は行動すること」 であり、「行動は知ること」 である。 これらを列記すると、陽明は行動を知より上位に置いたふしが感じられる。
だが、現代社会はどうか? 知と行の合一など 「夢物語」 の観を呈している。 知と行の乖離と不一致は甚だしく、知を行動より上位に置いていること歴然である。 知と行の不一致を都合よく、仏教の 「嘘も方便」 を使って、正当化して恥じることもない。 その方便は政治や経済の手法において、妥当性が認められたとしても、こと個人においては 「破滅的な状態」 をもたらす。 ことさら、情報化社会は、知が限りなく拡大し、膨張していく社会であってみれば、行動など、今や 「風前の灯」 であって、無きに等しい。
行動なき知の膨張は、いかなる未来をもたらすのか? しかして、行動をもって実在が証明されない知とは、いったい何なのか? この状況下で、人が精神喪失に陥らないほうが不思議である。 嘘も方便は、「村の内」 では妥当性があっても、「身の内」 では最悪であって、その妥当性など欠片(かけら)もない。 もしかかる状態を漫然と放置するならば、その人間存在は 「致命的」 であろう。
2023.03.07
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