現代人が絶大な信頼をよせる科学的合理性と呼ばれる
「理」 は、今や信頼から精神的な 「依存」 へと変質し、さらには宗教的な属性である 「帰依」 へと変貌を遂げつつある。 この流れを導いたのは、この世の万物事象に名を与えた
「言葉」 であることは少し考えれば誰しも了とするところであろう。
依って現代人は信頼の証としてその理を言葉に変換しなければ気がすまない。 理は言葉に置き換えてこその理であって、言葉に置きかえられない理は理ではない。
それは妄言であり、虚言であり、戯言である。
しかしながら、あらゆる万物事象を言葉に置きかえたとしても、それが 「理の本質」 をとらえたことになるであろうか? それはよくできた機械としての
「変換器」 と同じではないのか? コンピュータ万能の現代であれば、その程度の変換はいとたやすいことであろう。 まして科学的合理性としての理はコンピュータが得意とする
「ロジック(論理)」 をベースとすることからして、その 「アルゴリズム(計算方法)」 をコンピュータに入力することに何ほどの困難があろうか?
現代社会はかくなるコンピュータ的な 「変換器人間」 で満ちあふれている。 彼らはそれを 「自らの能力」 と思い込んでいるだけに、ほとほと始末がわるい。
さらに周囲もまた、それを助長するかのようにその能力を才能であるかのようにもて囃すからその迷妄はいっこうに覚醒することがない。
はたして彼らはその 「理の変換器」 を使わずに、その身を取りまく万物事象を語ったことが一度でもあったであろうか? 喩えて言えば、地中から見つかった変哲なき石片に刻まれた謎の象形の意味を自らの思考のみをもって解いたことがあったのかということである。
今、人に求められている能力とは、そのような能力である。 かような謎を解こうとするならば、その石片を肌身離さず持ち歩き、四六時中に渡って
「考えるでもなく眺め、眺めるでもなく考える」 ような思考状態を淡々と継続することになるであろうことは想像に難くない。 そして、とある日、突如として、その謎の意味を言葉ではなく、「体をもって頓悟する」
のである。 満たされた感動とはそのようなものであろう。 しかして 「自らを生きる」 とは、かくなる 「体験の日々」 そのものにあるのではあるまいか?
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