Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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人工知能社会の到来
 人工知能(AI)が幅を利かす時代ともなれば、人は何を考え、どう生きたらいいのか? 今では、プロの棋士でさえAIの手筋に翻弄される始末である。 そのような時代の基となった 「人間社会の様相」 を 第1618回 「理の変換器」 で描いている。 今後の指針となる論考であることを踏まえ、ここでその全文を以下に掲載する。
理の変換器
 現代人が絶大な信頼をよせる科学的合理性と呼ばれる 「理」 は、今や信頼から精神的な 「依存」 へと変質し、さらには宗教的な属性である 「帰依」 へと変貌を遂げつつある。 この流れを導いたのは、この世の万物事象に名を与えた 「言葉」 であることは少し考えれば誰しも了とするところであろう。
 依って現代人は信頼の証としてその理を言葉に変換しなければ気がすまない。 理は言葉に置き換えてこその理であって、言葉に置きかえられない理は理ではない。 それは妄言であり、虚言であり、戯言である。
 しかしながら、あらゆる万物事象を言葉に置きかえたとしても、それが 「理の本質」 をとらえたことになるであろうか? それはよくできた機械としての 「変換器」 と同じではないのか? コンピュータ万能の現代であれば、その程度の変換はいとたやすいことであろう。 まして科学的合理性としての理はコンピュータが得意とする 「ロジック(論理)」 をベースとすることからして、その 「アルゴリズム(計算方法)」 をコンピュータに入力することに何ほどの困難があろうか?
 現代社会はかくなるコンピュータ的な 「変換器人間」 で満ちあふれている。 彼らはそれを 「自らの能力」 と思い込んでいるだけに、ほとほと始末がわるい。 さらに周囲もまた、それを助長するかのようにその能力を才能であるかのようにもて囃すからその迷妄はいっこうに覚醒することがない。
 はたして彼らはその 「理の変換器」 を使わずに、その身を取りまく万物事象を語ったことが一度でもあったであろうか? 喩えて言えば、地中から見つかった変哲なき石片に刻まれた謎の象形の意味を自らの思考のみをもって解いたことがあったのかということである。
 今、人に求められている能力とは、そのような能力である。 かような謎を解こうとするならば、その石片を肌身離さず持ち歩き、四六時中に渡って 「考えるでもなく眺め、眺めるでもなく考える」 ような思考状態を淡々と継続することになるであろうことは想像に難くない。 そして、とある日、突如として、その謎の意味を言葉ではなく、「体をもって頓悟する」 のである。 満たされた感動とはそのようなものであろう。 しかして 「自らを生きる」 とは、かくなる 「体験の日々」 そのものにあるのではあるまいか?
 「理の変換器」 とは科学的合理性に依存する現代人の姿であるが、その理の変換器は、今後は 「人工知能(AI)」 に置きかえられていくことになろう。 いくら優秀な人材であっても、コンピュータを使った理の変換器には到底太刀打ちできない。 理の変換器としての多くの人材は淘汰を余儀なくされるであろう。 これによる被害は甚大である。 であれば、今後、人として向かうべき世界は、コンピュータが得意とするロジカル(論理的)な 「理の世界」 ではなく、エモーショナル(感情的)な 「情の世界」 であろうことは 「漠然と判断」 できる。 だがそれが如何なるものかは、これから展開されるであろう 「人工知能社会」 の動向を見守る以外に他に手立てがない。

2023.02.27


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