Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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デビット・ボームかく語りき〜宇宙の内蔵秩序
 現代理論物理学の先駆者であるデビット・ボーム(米国1917〜1992)が量子論に基づいて語った宇宙像を知ったのは遡る20数年前のことである。 その内容については幾度か本稿でも取り上げてきたが、いずれも部分的であったため、ここで改めてその全体像を以下に記載する。
 デビット・ボームは 「明在系と暗在系」 という2つの構造により宇宙が構成されているとする説を提唱した。 一般的人間が認識し理解できる世界を明在系と呼び、認識し理解できない世界を暗在系と呼ぶ。 宇宙に明在する物の各部分に宇宙に暗在する物のすべての情報が内蔵されている。 それは 「内蔵秩序」 と呼ばれ、宇宙の各部分には全宇宙に現存するすべての情報がその中に含まれている。 例えば、植物の種子を見れば、それは単なる小さな粒である。 しかし、それが土にまかれると根が生え茎が伸び葉が出てやがてその植物の形を我々の前に現す。 種子の中に内蔵されていた情報が我々にわかる形に象出してくるのである。 つまり、明在する種子だけを見たときには、この植物の形は暗在していて知覚はできないのである。 これと同じように宇宙の各部分には宇宙全体の情報が内蔵されているのである。 量子論では過去の現在への影響について説明することができない。 量子力学は限られたある一瞬だけを扱い、それを観測するのみである。 ボームは現在という瞬間が宇宙全体の 「投影(プロジェクション)」 であるという考え方で量子力学における時間に関する不足部分を補おうとした。 宇宙全体の中に包みこまれていた何かの局面が現在という瞬間に開かれ、その刹那にその局面が現在になるというのである。 そして次の瞬間も同じように全体の中に包み込まれていたもうひとつの局面が開かれるというように考える。 ここで重要なことは、ボームがそれぞれの瞬間は前の瞬間と似ていて、しかも違っていると主張していることである。 これについてボームは 「注入(インジェクション)」 という言葉を使って説明している。 つまり、現在という瞬間は全体の 「投影」 であり、投影された現在は、次の瞬間には全体の中に逆に 「注入」 され返す。 ゆえに全体に戻ってきた前の瞬間の性質が次の瞬間に全体から投影される局面に一部含まれることになる。 これにより前の瞬間と次の瞬間の現在との間に因果性が発生する。 これは浜辺にうち寄せる波のごとくである。 我々は現在という浜辺に立っている。 海は宇宙の全体であり、すべての秩序が内蔵されている。 しかし、我々はその姿、形を漠として知覚はできない。 その全体宇宙から刹那刹那に波が押し寄せてくる。 その波がうち寄せることで、我々は波を現実に知覚でき宇宙の存在を実感する。 しかし、いったん浜辺にうち寄せた波は再び全体宇宙へと戻っていく。 そのときには、いったん浜辺にうち寄せたことで、現実の世界に現した形の情報とともに全体宇宙に戻っていく。 ゆえに全体宇宙にその情報が含まれることになるのである。 そして、その情報は次に全体宇宙から投影されて浜辺にうち寄せる波の形などに影響を与える。 彼は全体の投影である一刹那を考え、その一刹那が運動であるととらえる。 その全体からの投影こそが事物の実在化であるとする。 その実在化の刹那が継続することにより、時間軸が発生し、我々が認識できる確固たる実在となるのである。
 ボームの表現は物理学者としては、多分に直観的であり、文学的であり、暗示的である。 だが不可思議な量子論と対峙するためには、このようなアプローチこそが彼にとって最も有効な方法であったに違いない。 私はボームの宇宙像からその後の思索の基底となる多くの啓示を受けた。 宇宙の内蔵秩序としての対称性。 細部は全体であり、全体は細部であるとするフラクタル構造。 過去や未来は現在に含まれているとする時間構造 ・・ 等々はその賜である。
 以下の記載は、1992年8月、デビット・ボームの英国ロンドンの自宅で行われた科学ジャーナリスト、ジョン・ホーガンのインタビューに応えたものである。 以下はその内容から抽出したものである。
 ボームは 「内に秘められた秩序」 と呼ばれる世界観を打ち立てた。 物理的な現象の背後には、常により深遠な隠された秩序が存在する。 この内に秘められた秩序を深く理解するためには、科学者は以前の仕組みについて幾つかの基本的な仮説を捨てる必要があるとボームは言う。 「秩序とか構造といったような基本的概念が知らず知らずのうちに、私たちの思考を縛りつけてしまっている。 新しい種類の理論には、新しい種類の秩序が必要になってくる。 だが、従来の基本的な概念は依然として座標によって記述される機械論的な秩序なのだ」 とボームは論じた。 そして、科学者が自然のすべての現象を唯一の(超ひも理論のような)現象にまとめあげて、自らの活動に終止符を打つ可能性は否定した。 「私はこれには限界がないと考えている。 人々は万有を説明する理論を話題にするが、それはひとつの仮説であって、根拠のないものだ、それぞれのレベルに外見上のものとその外見を説明する他の本質が存在する。 しかし、それから別のレベルへ移ると、本質や外見は役割を交換してしまう。 終わりなんてないのです。 私たちの知識の本質はまさにそういうものです。 万物の背後に存在するものは未知で、思考によって把握できるものではないのです」。
 ボームにとって、科学は 「無限に続くもの」 だった。 現代の物理学者は自然の力が現実の本質だと思っている。 「しかし、なぜ自然の力があるのか? 自然の力はそれがわかってこそ本質と言えるのだ。 原子は窮極の本質ではなかった。 それならば、なぜ力が本質でなければならないのか?」 現代の物理学者の最終理論についての信念は単なる自己達成的なものでしかない。 最終理論は真の疑問を避けることだ。 「もしあなたが魚を水槽に入れて、その中にガラスの障壁を置いたら、魚はその障壁に近づかないようになるだろう。 そして、ガラスの障壁を取り外しても魚は依然としてその障壁のあった場所を避けて、世界全体がそういうものだと思ってしまうだろう」。 「同じように、これが終わりだとするあなたの考え方が、さらに深く物を見る障壁になってしまうんだ」。 「私たちは何かの外見でないような最終的な本質を手に入れることは決してないだろう」 と言った。 今後、科学は全く予想もされない方向に進んでいくことは確かであるとボームは言った。 彼はこれからの科学者は現実をモデル化するに際し、数学にはあまり頼らないで隠喩や類比を新たな拠り所にするようになるであろうと予測した。
 他の多くの科学者が夢追い人のように、ボームも科学と芸術がいつの日か融合するだろうと期待していた。 芸術が単にその作品だけではなく 「創作の姿勢、つまり芸術的な精神」 から成り立っているように、科学も知識の集積だけでなく、知覚の新鮮な様式の創造からも成り立っているのだ。 「今までとは違うように理解し、考える能力のほうが、知識よりずっと大切なものだ」 と言った。
 ボームは最後にもう一度、最終的な知識を得ることは難しいことを伝えるように、「知られているものには、すべて、おのずから限界がある。 仮に、限界がないと考えても、限界があるという考えとそう違いがないことに気づくべきだ。 無限には有限が含まれなければならないのだ。 創造の過程では、限界がないものから限界があるものが生じると言わなければならない。 それゆえに私たちはどこまで進んでも限界はないと言いきれるのだ」。
 ボームは科学と人生の 「遊び」 の重要性を指摘していたが、真実の探求はまさに恐ろしく困難な、しかしどうしても必要なことだったのである。 ボームはいかなる真実も、最初は不思議に思えるが、結局は、絶対的な真理は表そうとはせず、それを隠そうとして、活気のないものになってしまうことを充分に知っていたがゆえに、あえて 「現実を知ることはできない」 と主張したのではあるまいか?
 このインタビューを遺言とするかのように、この2ヶ月後、不世出の科学者と讃えられたデビット・ボームはこの世での探求生活に終止符をうって黄泉の世界へと旅立っていった。

2023.02.03


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