未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
新たな言語の創造
物質が主体の工業社会では、新たな世界は新たな物体(製品)から生まれた。 そのため発見や発明はもっぱらその新たな製品を創りだす技術や構造等に向けて行われ、その新たな技術や構造は工業所有権(特許権等)として、特許庁に出願され保護されたのである。
だが意識が主体の情報社会では、新たな世界は新たな認識(情報)から生まれることになる。 そのための発見や発明はもっぱらその新たな情報を創りだす認識や意味(コンテンツ)等に向けて行われることになる。 より具体的に言えば、その新たな情報を創りだす認識や意味の根源を成す 「新たな言語」 を創造することに還元される。 その新たな言語とは、第1415回 「想像と言語の変換術」 で述べた 「限界を超える言語」 のことに他ならない。 要旨を抜粋すると以下のようである。
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する、私の心の限界が私の世界の限界である」 とは、オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタイン(1889〜1951年)の言葉である。 他方、「
即身
」 とは 「意識と身体を融合する」 ことである。 換言すれば 「想像と現実を融合させる」 ことである。 その即身からすれば、ウィトゲンシュタインの 「私の言語の限界」 とは 「私の想像の限界」 を意味する。 そしてまた 「私の世界の限界」 とは 「私の現実の限界」 を意味する。 私の想像を 「私の言語」 に置きかえ、私の現実を 「私の世界」 に置きかえれば、即身とは、「私の言語」 と 「私の世界」 を融合させたものである。 この置換によって、即身はより明確なものに転じる。 なぜなら想像は多分に輪郭が曖昧な 「意識の抽象性」 であるのに対し、言語は多分に輪郭が明瞭な 「意識の具象性」 であるからに他ならない。 実在としての現実に対応するためには、より具体的な方法でなければ役に立たない。
かくして、限界を超えた想像を拓くための限界を超えた言語が必要になる。 即身の 「大いなる秘術」 とは、あるいは 「想像を言語に変換する変換術」 のことなのではあるまいか? であれば 「限界を超える言語の創造」 こそが必要となる。
ちなみに、工業社会で行われた 「発明」 は、形而下の学問である科学や経済学等に基づいて無から形ある物体(製品)を生み出すものであったが、情報社会で行われる 「発明」 は、形而上の学問である哲学や心理学等に基づいて無から形なき認識(情報)を生み出すものである。 前者の発明は形而下の具象性を生み出し、後者の発明は形而上の抽象性を生み出す。 同じ発明と言えども、その本質は大きく異なっているのである。
2022.12.12
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