Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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大隠は朝市に隠る〜陸沈の人
 先日、コロナ禍で会うこともままならなかった友垣から久しぶりに電話があった。 あれこれ近況を話しているうちに、彼の身に起きた出来事に話が至った。 曰く、「最近は65歳を過ぎるとキャッシュカードさえ自由につくれないし、銀行の窓口に行っても少額しかおろせない」 と言うのだ。 彼が言わんとするところは 「老齢化した自分には、もはや一般人としての信用さえ付与されない」 ということである。 「だがかっては齢をとったら意地悪ばあさんならぬ “意地悪じいさん” になると息巻いていたじゃないか」 と私が言うと、「なに言ってるんだ、意地悪しようにも近づけば、我先に逃げていってしまって、相手にもされない」 と嘆いた。 つまるところ彼は、団塊の世代が迎える 「高齢化社会」 に対する 「やるかたない憤懣」 を述べているのである。
 以下の記載は、そんな高齢化社会で孤軍奮闘する彼に向けて書いた、私からのささやかな 「エール」 である。
 還暦と言えば、昔はもう隠居である。 評論家、小林秀雄が、あるとき英国に長く生活していた人に隠居に相当する言葉が西洋にもあるかをたずねた。 彼はそれは 「country gentleman」 のことだと答えた。 それを聞いた小林は、日本では隠居は隣にいるか横町にいるに決まっている。 田舎になどに逃げ出す隠居にろくな者はいないと笑ったという。
 孔子は73歳で死んだ。 彼は15歳で学に志してから幾つかの年齢の段階を踏み70歳で学が成就した。 彼はそれを単に学問的知識を殖やすのに時間がかかると言ったのではない。 年齢は 「真の学問」 にとっては、その 「本質的な条件」 を成すと言ったのである。 世の中は暮らしてみなければ納得できない事柄に満ちている。 肝腎なことは誰もが世の中に生きてみてはじめて納得するのである。
 しかして、孔子の学問には、科学がすっぽりと抜け落ちている。 彼にとっては、太陽が東から上り、水が低きに流れることなど、学問を待つまでもなく 「解り切った話」 であった。 孔子は 「生きる」 という全的な難問を勝手にひねり出したのではない、ばったり出会ったのである。
 孔子は隠士(隠居)を 「陸沈」 という言葉を使って説いた。 世間に捨てられるのも、世間を捨てるのも易しいことだ。 また、世間に迎合するのも水に自然と沈むようなもので、もっと易しいことだ。 最も困難で積極的な生き方は、世間の直中に、つまり水無きところに 「沈むこと」 である。 しかして、かくなる現実主義は年齢との極めて高度な対話によって、なされると孔子は考えたのである。 是即ち 「大隠朝市(大隠は朝市に隠る)」 である。
 大隠は朝市に隠るとは、真に悟りを得た隠士は、山中などにでなく、人の集まる俗世間にて、一般の人と同じように暮らしているものだ。 本当に高尚な人物は、人付き合いを避けたりせず、世間でふつうの人々と一緒に暮らしているものだ ・・ 等々の意。
 莫逆の友である彼には市井の真っ直中に生きて、自らの年齢と深く対話する 「陸沈の人」 になって欲しいと願うのだが、彼からすれば 「余計なお節介」 と笑止するに違いない。 だが、お節介もまた、かっての隠居には備わっていた欠くことなき 「美徳」 であったはずなのである。 畢竟如何。

2022.12.08


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