Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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賢者と愚者の臨界〜安国寺恵瓊の予見
 賢者と愚者の間を分かつ臨界とは何であろうか? 国葬をひかえた安倍元首相は果たして賢者であったのか愚者であったのか? しかしてロシアのプーチン大統領は賢者なのか愚者なのか?
 戦国の名軍師としては竹中半兵衛、黒田官兵衛、山本勘助、直江兼続 ・・ 等々の名が挙げられようが、信長の死とそれに伴う秀吉の天下取りを予見した安国寺恵瓊もまた彼らに勝るとも劣らない名軍師であろう。 その安国寺恵瓊の事跡を戦国史から抽出すると以下のようである。
 織田信長によって京都を追放された足利十五代将軍義昭の調停を毛利輝元から委ねられた安国寺恵瓊は上洛して信長の家臣羽柴秀吉と逢って義昭の京都復帰を依頼した。 その帰路、岡山に宿泊した恵瓊は毛利家を支える吉川元春・小早川隆景の家臣に宛てて都の情勢を報告書にしたが、その末尾で以下のように書いている。
 信長の代五年三年は持たるべく候、明年あたりは公家などに成らるべく候かと見及び申候、左候て後、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候 ・・ 藤吉郎さりとてはの者にて候
 この報告書のすごいところは、織田信長のその後の躍進と末路、さらには秀吉の台頭を見事に的中させたところにある。 書かれたのが 「本能寺の変」 が起きる十年前のことを考えれば 「恵瓊の慧眼」 には驚嘆する他に言葉がない。 その後、毛利家の外交僧として毛利輝元と豊臣秀吉との講和を成立させ、秀吉の側近となって天下取りに協力、遂には城持ちの大名にまで出世、その間において南禅寺の住職にも就任しているというような異彩を放つ軍師など他に類を見ない。
 だがその慧眼をもってしても自らが関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ、慶長5年10月1日京都六条河原で刑死することまでは見抜けなかった。 だが数々の未来を的中させてきた安国寺恵瓊であってみれば、そのことを見抜いたうえで、あえてその未来に殉じたのかもしれない。
 しかして、織田信長は賢者なのか愚者なのか? 豊臣秀吉は賢者なのか愚者なのか? そして安国寺恵瓊は賢者なのか愚者なのか? 賢者と愚者の臨界は 「ゆらぎの狭間」 でもある。

2022.09.22


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