忘れられないシーンがある。 技術者としてまだ駆け出しの頃のことである。 私は新たな製鋼工場を建設するプラントエンジニアとして総合工程調整を担当していた。
総合工程調整の担当者は私以外にもうひとりいて、本社社長室から派遣されていた。 私とは10歳程も年長であり、建設本部長が若輩の私を心配して特別に呼び寄せたのである。
本部長からは 「語りぐさになるほど」 に優秀だと聞かされていたが、どこが優秀なのかと思うほどに茫洋とした風貌を漂わせ、何処へ行くともなく、のらりくらりと工場内を歩き回っていた。
しかし、いざ仕事にかかるやその速度は驚異的であった。 私が1週間かかることを軽々と1日で処理してしまう。 私が必死になっている机の前では頬杖をついてニヤニヤ笑って眺め、コピーしている私をつかまえては
「君のコピーは1枚あたり0.何秒のロスがある ・・ それを一生繰り返すと何時間のロスになる ・・」 などと言う。 この野郎と思うとともに唖然としていた私はその後、彼の凄さを目のあたりにすることになる。
それは酸素供給設備を検討しているときであった。 工場から提出された計画書には必要酸素量は1日あたり〇〇万立方メートルと記載されていた。
それを見た私はさっそく酸素設備会社へ来社の意向を問う電話をかけようとしたが、窓辺に立ってぼんやりと窓外に広がる工場群を眺めていた彼は、おもむろに
「酸素の分子量はいくつか」 と聞く。 「O2ですから分子量は32です」 と答えると、では 「酸素1分子量の体積はどのくらいか」
と聞く。 「アボガドロの法則では1分子量(1モル)あたり22.4リットルです」 と答えると、では 「提出された必要酸素量の〇〇万立方メートルを22.4リットルで割って32グラムをかけてみてくれ」
と言う。 電卓を叩いた私は〇〇トンという数字を見て建設すべき酸素供給設備の概要を瞬時に理解したのである。 この間に要した時間は数分であった。
酸素設備会社を呼んで打ち合わせをしようとしていた私ではその数百倍の時間を要したにちがいない。 つまり、知識は多分に私にあったのであろうが、知恵は多分に彼にあったのである。
彼はその知恵をもって、私の頭の中にあった知識を使って、最短で答えに行き着いたのである。 「生きた知識」 とは、かくこのようなものであるかと骨身にしみた私はその後、物事に行き詰まる度に、この時の
「シーン」 が脳裏に甦ってきた。
無二の先輩となった彼からは、「こぼれ落ちるほどに」 多くの生きた薫陶を受けた。 だが悲しいかな、その数年後、突如として彼はこの世を旅立ってしまった。
戦国の名軍師、竹中半兵衛ほどに無欲で 「知謀天翔る」 ような天才技術者であったと今も思う。 (2014.08.26)
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