Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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只管打坐〜作為を捨てて悟りに至る
 曹洞宗の開祖、道元禅師の坐禅観は 「悟るためにではなく」 ただただ坐禅する 「只管打坐(しかんたざ)」 をもって旨とする。 目指したのは 「身心脱落(しんじんだつらく)」 である。 身心脱落とは 「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」 を意味する。 道元はこの言葉で悟りを開いたという。
 「只管打坐」 については充分に理解してきたと思っていた私であったが、その理解は 「座禅の意味」 に終始するばかりで 「何のために」 という目的に関してはもっぱら無頓着であった。 しいて目的を聞かれれば、当然にして 「悟るため」 と応えたに違いない。 だが道元の坐禅観である只管打坐が目的とするものは 「悟るためではない」 というのだ。
 何事かを目的とする行為の裏側には時として 「作為」 が隠されている。 時としてと言うは作為がない 「無償の行為」 のようなものもあるからに他ならないが、現代社会のような何事も 「功利性」 で考えられるような世界であってみれば、大半の行為に作為が隠されていると考えてさしつかえない。
 作為とは、換言すれば 「忖度」 であり、ともすると 「詐術」 でもある。 現代社会で要求される行為の多くは立身出世を目的とした忖度に裏打ちされた作為で構成され、また多くは金儲けを目的とした詐術に裏打ちされた作為で構成されている。 現代人はこれらの作為を隠すために日夜奔走しているかのようにみえる。 ある者はその忖度を真実であるかのように装い、またある者はその詐術を無償の行為のように見せかける。 これでは何が真実で何が無償なのかが自分でも分からなくなってしまうのは必然の成り行きである。 やがては 「心身喪失」 に陥ってしまう。 道元が目指した 「身心脱落」 など夢のまた夢である。
 だが作為が隠された行為など、いかに巧みに隠蔽したとて、真心をもった人間であってみれば、先刻承知に見抜かれてしまうことは明白である。 それとも知らずにやっているとすればあまりに愚かな所行であると断ぜざるを得ない。
 道元はかく言いたかったのである。 「作為を捨てれば悟りに至る」 と。

2021.10.13


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