Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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存在と時間〜存在の時めき
 第1556回 「宇宙を纏う」 の中では永平寺を開山した曹洞宗の開祖、道元禅師が遺した以下の言葉を参照して 「宇宙への同化」 について論じた。
仏道をならうとは、自己をならうことである。
自己をならうとは、自己を忘れることである。
自己を忘れることは、万法に証せられることである。
万法に証せられるとは、自己の心身をも他己の心身をも脱ぎ捨てることである。
 弟子に向けての修行法が簡潔にして明快な文章をもって見事に説かれている。 だがそこには確とした 「時間軸」 が示されておらず、かくなる修行法において過去や未来がどのように関係しているのかが不明である。 悟るためにではなく 「ただ坐禅する」 という 「只管打坐(しかんたざ)」 を旨とする道元の坐禅観からすれば時間などはことさら説明する必要はなかったのかもしれない。 禅宗の始祖とされる達磨大師がインドから中国に渡って以後、嵩山(洛陽の東方にある山)の少林寺に籠もって 「九年間」 も壁に向かって座禅を組み続けて悟りを開いたという故事から鑑みてもそれは 「さもありなん」 の次第である。
 だが 第1482回 「道元禅師かく語りき」 の中では 「道元の時間論」 について述べている。 抜粋すると以下のようである。
 曹洞宗の開祖、道元が著した 「正法眼蔵」 に 「而今(じこん)」 という言葉が登場する。 而今とは 「今この一瞬」 の意である。 道元は 「過去もなく 未来もない ただ今があるのみ 今の刹那を生きるのだから 何をするにしても心を込めなさい」 と諭した。 さらに道元は正法眼蔵の 「有時(うじ)」 の巻で、独特の時間論を展開している。 「有時」 は 「有る」 という字に 「時」 と書く。 この 「有る」 は 「存在」 のことで、人間に焦点をあて、「有時」 と一語にしたのは、自分を抜きにして時は存在し得ないということを表現しようとしたからである。 その中で道元は 「時はひとりでに過ぎ去っていくものだと考えてはならない」 と述べている。 また 「一瞬一瞬に自分という存在を滑り込ませつつ時は生み出されていくものである」 とも述べている。 道元は 「この自分という存在と一体の時間を生きる今」 とはどうあるべきかを問いかけ、而今としての 「今この一瞬」 の時間としっかりと向き合って生きる時、その人にとっての時間とは、単に一方向に過ぎ行く流れではなくなり、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開されていくものとなると結言した。
 道元の時間論は、私が提示した過去・現在・未来が連なった 「線形時間」 を廃棄したときに現れる、時間が流れない 「現在だけの世界」 をとらえた 「シンプルな宇宙構造」 と奇しくも一致する。 この宇宙構造では過去や未来は現在に含まれていて、「ある刻には過去」 が、また 「ある刻には未来」 が、実在としての 「現在世界」 に象出してくる。
 それを道元は 「時間とは、ひとりでに過ぎ去っていくものではなく、一瞬一瞬に自分という存在を滑り込ませつつ生み出されていくものであって、単に一方向に過ぎ行く流れではなく、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開するものである」 と表現したのである。
 これらの時間論は哲学者、大森荘蔵がその著書 「時間と存在」 の中で 「存在の時めき」 と呼んだものに他ならない。 存在の時めきについては、以下の回を参照願えれば幸いである。
第1174回 「存在の時めき〜存在の今の今」
第1301回 「存在の時めき〜永遠は瞬間にあり」
 かくして 「破滅からの脱出」 を画した思考展開は、「宇宙への同化」 から 「生命の海としての即身」 を経由して 「存在の時めき」 に至った。 そこからは破滅からの 「脱出口の光」 らしきものが見えた気がしているのであるが。 畢竟如何。

2021.09.28


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