Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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音楽が先か言葉が先か
 言語表現力をなくした失語症の患者でも歌うことはできるという。 たとえば 「ハッピーバースデー」 を本人の誕生日でなくとも誰かが歌い出すとそれにつれて歌い出すというのだ。 そうして歌っているうちにメロディーだけでなく言葉も思い出されてくるという。
 人類進化の過程において音楽能力の形質獲得が先にあったのか、それとも言語能力の形質獲得が先にあったのかは、いまだに結論がでていないという。
 あるいはそれは同時であったのかもしれない。 歌の創作過程も作詞が先か作曲が先かが論争の的になることは現代でも多々あることである。 ある人は詞に曲をつけると言い、またある人は曲に詞をつけると言う。 私はどちらも正しい気がする。 メロディー(曲)を口ずさんでいるうちに突如として詞(言葉)が天から降ってくる場合もあるであろうし、逆に詞(言葉)を朗読しているうちに突如としてメロディー(曲)が降ってくる場合もあるであろう。 つまり、詞(言葉)とメロディー(曲)は1枚の紙の表裏のごとくに相対的であるとともに相補的である。 それは一体的で切り離すことができない 「※)相即不離」 な存在なのである。
 かって福井県の山間に位置する曹洞宗の大本山 「永平寺」 を訪れたときのことである。 折しも修行僧が集団で読経する場に遭遇した。 堂内に響くビートのきいた重低音の読経の大音声はあたかも厳粛な交響曲のようであった。 また経文にはときおりマントラと呼ばれる呪文が登場する。 マントラには音はあっても意味はない。 般若心経の末尾には 「羯諦(ぎゃーてい) 羯諦(ぎゃーてい) 波羅羯諦(はらぎゃーてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃーてい)」 というマントラが配されている。 その音の連呼はボレロを聴くようでなんとも気持ちがよい。 マントラには音(曲)はあっても詞(言葉)がないことをもって、それは音響としての音楽そのものである。 だが音響としての音楽である交響曲やボレロの中に 「物語を感じる」 のであれば、それはもはや言葉の発生(萌芽)を意味している。 以上の状況を還元すれば 「音楽は言葉」 であるとともに、また 「言葉は音楽」 であることに帰着する。
 ひょっとすると人類は身のまわりに起きた 「物語を他者に伝えるために」 音楽を言葉を編み出したのかもしれない。 そう考えればすべての連鎖が無理なく完結するように思えるのだが ・・ どうであろう。
※)相即不離
 関係が非常に密接で切り離せないこと。 区別がつかないほど密接な関係のこと。 「相即」 は仏教語で二つの事象が溶け合って差別なく一体となること。

2021.09.18


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