かって福井県の山間に位置する曹洞宗の大本山 「永平寺」 を訪れたときのことである。 折しも修行僧が集団で読経する場に遭遇した。
堂内に響くビートのきいた重低音の読経の大音声はあたかも厳粛な交響曲のようであった。 また経文にはときおりマントラと呼ばれる呪文が登場する。
マントラには音はあっても意味はない。 般若心経の末尾には 「羯諦(ぎゃーてい) 羯諦(ぎゃーてい) 波羅羯諦(はらぎゃーてい)
波羅僧羯諦(はらそうぎゃーてい)」 というマントラが配されている。 その音の連呼はボレロを聴くようでなんとも気持ちがよい。
マントラには音(曲)はあっても詞(言葉)がないことをもって、それは音響としての音楽そのものである。 だが音響としての音楽である交響曲やボレロの中に
「物語を感じる」 のであれば、それはもはや言葉の発生(萌芽)を意味している。 以上の状況を還元すれば 「音楽は言葉」 であるとともに、また
「言葉は音楽」 であることに帰着する。
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