※)方法的懐疑とは
全てについて疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけは、その存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」 と疑っている自分自身の存在は否定できない。 「自分はなぜここにあるのか」 と考える事自体が自分が存在する証明であるとする命題である。
デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していったとされる。
また、これを意識の 「内部」 の発見と位置付けることもできる。 中世までの哲学では、意識の内部と外部の問題系というものがなかった。
いいかえれば、内部に現われている観念(表象)と外部の実在が一致すると思いなされてきた。 ところが、デカルトの方法的懐疑はまずこの一致の妥当性を疑った。
すなわち、表象と実在は一致するのではなく、むしろ表象から実在を判断することは間違いを伴う、というのである。 「一度でも間違いが起こった事柄に関しては全幅の信頼を寄せない」
とするデカルトは、それでもやはり、絶対確実なものを見つけようと試みた。 ここで、絶対確実なものとは、表象で直観されたものから実在に関する判断が直接に導かれる事柄のことである。
そして、このようなものとは、実は 「絶対確実なものを見つける」 という試みそのものを可能にする、「私は考える」 という事実であった。
これによって、意識の 「内部」 としての 「考えるところの私」 が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。
例えば、「観念に対応する実在はいかに考えられるべきか」 や 「もっとも確実な観念はなにか」 といった問いがあげられよう。
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