Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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最大多数の最大幸福〜幸せは量から質へ
 個人の幸福を社会の望ましいあり方に結びつける方法として、英国のジェレミ・ベンサム(1748〜1832年)が18 世紀末に定式化した 「最大多数の最大幸福」 がある。 その基本にあるのは、個々人の幸福を量として把握するという考え方である。 ある社会の 「幸福の総量」 はその構成員一人一人の幸福量をすべて加算することによって得られる。 望ましい社会とは、この 「幸福の総量」 を最大化するような社会だということになる。 現代社会で語られている幸福とは多くこの 「量としての幸福」 である。 だが、幸福は均質なモノではなく、量に還元することのできない経験である。 それは人によって異なり、同じ一人の人にあっても、時と場合によって異なる。 そうした異質な経験を一律に数え上げ、「幸福の総量」 を算出するという発想はあまりに直截に過ぎる。
 ベンサムの方法の対極に位置するのが 「幸福の質」 を追求したニーチェの考え方である。 「末人」 とは 「牧人のいない畜群」 であり、主人を追放した奴隷のことである。 この主人なき奴隷の間ではじめて、「最大多数の最大幸福」 が最大の説得力を獲得する。 なぜなら、ここでは主人なき奴隷にとっての、万人共通の幸福が幸福の基本単位とみなされるため、個々人の幸福を均質なモノとして社会の 「幸福の総量」 を数え上げるという乱暴な考え方もそれほど暴力的に感じられなくなるからである。 だが、「末人」 に比べると、我々現代人は幸福であることに自信がない。 人類史上かつてないほどに豊かで、快適で、安楽で、平等で、長生きの時代が来たというのに、どこか幸福を感じない。 まだ昔の方がましだったと思う人々も少なくない。 実に多くの人々がさらなる快楽と刺激と苦行を求め幸福を探して彷徨い歩いている。 「ツァラトゥストラはかく語りき」 では、善悪や真偽は 「美醜」 の問題へと移行する。 「善」 が 「悪」 を断罪し、「真」 が 「偽」 を告発するのと異なり、「美」 はけっして 「醜」 を責めない。 その代わり、その醜さを笑い、笑いながら自分のほうへ、美のほうへと誘惑するのである。
 かくしてニーチェは 「幼子の幸福」 に行き着く。 好きなことをし、好きなように生き、他人を非難せず、自分を責めることもなく、いつでもどこでも 「創造の遊戯」 に興じ、「善悪の彼岸」 を遊んでいる。 窮屈な満員電車のなかでも、街角の薄汚れた路地裏でも、猛暑の日でも、大雨の日でも、自分の 「いま、ここ」 を遊び場に仕立ててしまう。 服でも食べ物でも、鳥でも雲でも、言葉でも表情でも、自己でも他者でも、ありとあらゆる存在を遊び道具に変えてしまう。 どんなに嫌なことも遊びながら笑い飛ばし、踊りこえていく。 その姿は 「幸福そのもの」 である。
 ただひとつ、幼子の幸福に帰着するためには自己の 「内なる主人」 を死なせてはならない。 最大多数の最大幸福を求めた 「末人の幸福」 とは、自己の内なる主人を死なせてしまったがゆえに行き着いた 「奴隷の幸福」 に他ならないからである。

2021.06.30


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