時間が過去→現在→未来と線形的に流れているように感じるのは 「時間というパラメータを使ってこの世の出来事の経過を支障なく説明できる」
からに他ならず、それ以外に相当の妥当性を満たす理由を見いだすことはできない。 また、「運動を時間で分解することはできない」
とは、運動を撮影した映像がコマ送りすることができても、現実の運動をコマ送りすることができないことによる。 この意味では運動と映像は似て非なるものである。
投げあげたボールを空中で停止させることなどできないのである。 停止できるのは運動が終了して速度が0になった状態でのことである。
同様に投げあげたボールの運動軌跡を時間をパラメータにして1枚の紙の上に描けるからといって、実在場であるひとつの現実空間の上にその軌跡を描けるわけではない。
線形時間を使った過去・現在・未来とは時間をパラメータにして脳裏にある記憶としての1枚の紙の上に描いた森羅万象の運動軌跡であって、実在場であるひとつの現実空間の上に描いた軌跡ではない。
現実空間にあるものとは 「今の今」 という現在だけである。 現在とは速度をもった運動そのものであって、それを静止画に分解することなど、もとより不可能なのである。
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