想像と現実を一致させる即身に向けて空海の講じた 「大いなる秘術」 は仏に成った自己を揺るぎない実在性として信ずることであった。
荘子の 「胡蝶の夢」 では 「荘子が夢で胡蝶となったのか? それとも、胡蝶が夢で荘子となったのか?」 荘子はそれを確定できない。
この構図を空海の状況に置きかえれば 「空海が夢で仏になったのか? それとも仏が夢で空海になったのか?」 となる。 はたして空海はこの是非を確定できたのか?
おそらく空海もまた荘子のごとく確定できなかったであろう。 だがこの世の実践者(生きる者)としての空海であってみれば迷ってばかりでは何も解決しない。
がゆえに 「あえて信ずる」 ことでかかる是非の彼岸を超えていったのではあるまいか? 夢想主義者であった荘子と現実主義者であった空海の違いである。
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