Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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天上天下唯我独尊
 では目的と価値観が失われた社会でいかに生きたらよいのか? 人間にとっての最大の資産が 「考える頭脳と思う心」 であるとする私から言えば、解答は考えることと思うことから生まれることになろう。だが問題の核心は「どのように考え」、「どのように思う」のかという解答に向けた 「姿勢」 である。その姿勢は見せかけであってはならず、建前であってはならず、嘘や偽りであってはならない。 つまり、本物でなくてはならない。その姿勢が何者かに忖度するようであっては正解には至れない。あらゆるものから自立した姿勢のみが正解に至る唯一の道である。 釈迦が言ったという 「天上天下唯我独尊」 という姿勢はその典型であろう。
※)天上天下唯我独尊
 釈尊は、生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられている。この言葉の意味するところは、唯だ「私だけが尊い」という意味をあらわしているのではない。「唯我独尊」とは、「唯だ、我、独(ひとり)として尊し」との意味であり、それは、自分に何かを付与し追加して尊しとするのではない。他と比べて自分のほうが尊いということでもない。天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このいのちのままに尊いということの発見である。しかも、釈尊は生誕と同時にこの言葉を語られたと伝えられている。これは、釈尊の教えを聞いた人々が「釈尊は、生涯このことを明らかにせんとして歩まれた方である」という感動を表現したものである。 ふだん私たちは、これこれの財産があるからとか、名誉や地位があるからといったことによって、自らを他と比べて立派だと思いこんでしまう。「家柄がいい」とか、身体に障害をもつ人よりも「健常」である自分のほうが上だと無意識裡に考えていることがある。しかし、この釈尊の言葉は、人間は何らかの条件によって尊いのではなく、人間の、いのちの尊さは、能力、学歴、財産、地位、健康などの有無を超えて、何一つ付加することなきままで尊い「私」を見出すことの大切さを教える言葉である。この言葉はひろく世間に流布しているけれども、その意味が明らかになっていないところに、自他の、世界の、混迷があると言ってもいいかもしれない。
 この言葉を刺繍したジャンパーを着て、けたたましい音をたててバイクを走らせる青年たちを見たことがある。オレだけがと突っ張って他を顧みることのない青年たちの姿は、けっして、ひとり彼らのみのものではないであろう。権力に頼って独りよがりの「正義」を振りかざす国もある。そして私たちもまた同様の生き様を晒しているのでないか。そういう自身への問いをさそってくれる言葉である。
泉 惠機 (大谷大学助教授 解放の真宗学)

2020.06.11


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