今となれば吉本興業は猥雑さの時代の中を駆け抜けて生き残った希なる会社ではあるまいか? その猥雑さは芸のバックグラウンドであり、肥やしであり、明日への活力であったはずである。
その猥雑さを契約で明瞭にし公明正大なものにすべきであると識者は改革をうながす。 だがその改革は 「水清ければ魚棲まず」 の轍を踏むことにはならないか?
「掃き溜めに鶴」 のごとく、優れた芸人は猥雑さの中からしか現れないのではないのか? 街はゴミひとつなく綺麗になったとしてもそこに住む人がいなくなってしまったのでは本末転倒であろう。
「失われた街角〜猥雑さの行方」 の記憶はそんなことを思い出させてくれた。 「笑いが消えた街角」 にはなってほしくないのだ。
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