Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

失われた世界の断象
 「失われた世界」 は1912年にアーサー・コナン・ドイルが書いたSF冒険小説の題名である。 物語はかってあった恐竜時代の世界がアマゾンの奥地にのこっていたとするセンセーショナルな筋書きで展開する。 当時の少年達は興味津々にして昼夜を分かたず読み耽ったものである。
 以下の記述は 信州つれづれ紀行 の中で出逢った失われた世界の断象である。
動画ウィンドウの再生
 奥裾花渓谷は水芭蕉で有名な奥裾花自然園の湿原を源とする裾花川が刻んだ雄大な渓谷であり、奇岩、大岩壁で形づくられた渓谷美は日本百景の1つに数えられている。 2000mを越える戸隠連峰のちょうど裏側(西方)に位置する。 戸隠神社がある表側(東方)からは見慣れているのだがこの方向からの眺めは初めてであって別の山を見るようである。 20代の頃には、この山頂を縦走したこともあったから、この渓谷を上から眺めたはずなのだが、記憶は漠然として甦ってこない。 そして今日はかかる山頂を下から仰ぎ見ているのである。 かくみれば人生まさに 「一期一会」 である。
 ともあれこの渓谷はコナン・ドイルのSF小説 「失われた世界」 のようであった。 というのも樹齢300年〜400年のブナ林の太古の森を逍遙する中で 「ヘビ」 に遭遇すること2度、「トカゲ」 に遭遇すること1度、さらにはたどり着いた観光センターの自動販売機はディーゼル発電機が止まっていて飲むことできず、携帯電話の電波は山間に遮られて用をなさず、およそ現代文明からは隔絶された空間であることを自ら 「目のあたりにした」 からである。 ちなみにバケツに汲まれた清水で冷やされていたジュースを売ってくれた売店のおばさんによれば、冬季の積雪は7mを越えるとのことである。
動画ウィンドウの再生
 奥裾花自然園は新潟県境に近い裾花川の源流部にあり、81万本余りの 「水芭蕉群生地」 で、尾瀬よりその規模は大きいという。 春5月〜6月上旬頃まで白い清楚な花を咲かせる。 園内を取り囲む 「ブナの原生林」 にはクマやサルなどの野生動物が生息し、今なお 「太古の息吹」 が漂っている。 この地で水芭蕉が発見されたのは1964年(昭和39年)と最近のことであり、それまでは 「知る人もなく」 悠久の時間が営々と流れていたのである。 ちなみに水芭蕉は白い花びらのように見える部分が、実は葉が変化したものであって、花は中の薄緑色をした棒状の花茎についている。
 訪れた日はすでに開花の季節を過ぎていて花は 「ちらほら」 としか見ることはできなかったが、この列島に居住した縄文人の彼らが、おそらくは最も好んだであろう 「ブナの木」 から発せられた自然の生命力を全身に浴びて、太古の時空に 「巡り逢う」 ことができたのが、何にましても代え難いことであった。 だが、この温帯を代表する落葉広葉樹、ブナの森も、秋田県と青森県にまたがる白神山地が、世界自然遺産に登録されたごとく、世界的に稀少となっていて、今や絶滅の危機に瀕している。
2011.6
 以下の記述は 知的冒険エッセイ 創作の中でで出逢った失われた世界の断象である。
 現象学を創始した哲学者フッサールは我々が眺める世界を 「意識の地平」 と表現した。 我々は良くも悪くも自己意識によって編集された風景を見ているのである。
 かって古代人が眺めた世界とは山には神仙が、森には精霊が住むという情意で編集された 「霊魂の風景」 であった。 だが現代人が眺める世界とは標高2000mの山と面積10Kuの森という数値で編集された 「化石の風景」 である。
 科学で最も基本とされる波動方程式を考え出した物理学者シュレジンガーは 「精神と物質」 という著書の中で 「人間が意識するものは変化であり、繰り返しなされる事象は無意識下に埋没する」 と語っている。 繰り返される心臓の鼓動や肺の呼吸は無意識下に去り、何らかの変調が顕れた場合にのみ意識化する。
 この意識メカニズムは生物が環境に適応するために必要な機能なのであるが、同時に我々が眺める世界を意識に顕れた変化する風景だけに拘束し、繰り返されて無意識下に去る多くの風景を時空の彼方に埋没させてしまう。 この埋没した風景とは言うなれば過去幾度も繰り返され 「あたりまえ」 となった風景であり、このあたりまえの風景の中に実はかっては眺められたさまざまな世界が隠されている。 ニュートンは林檎が木から落ちるというこの 「あたりまえの風景」 の中からあらゆる物体の位置を規定する 「万有引力の世界」 を発見したのである。
 今、多くの現代人は新たな変化と刺激をのみ求め東奔西走するに忙しい。 その中からも新たな世界が見えてくるには違いない。 だがそれをはるかに凌駕する多くの世界がこのあたりまえの意識の中に内包されているのである。
 「科学する意識」 は意識の地平に24時間営業のコンビニを出現させ我々から静寂な夜を消滅させ、テレビを出現させ家庭から楽しきだんらんを消滅させ、コンピュータゲームを出現させ子供から夢多き昔話を消滅させてしまった。
 そして 「繰り返される意識」 は意識の地平からトムソーヤの汚れなき悪戯の風景を消滅させ、菜の花畑とおぼろ月夜に霞む美しき牧歌的な風景を消滅させてしまった。
 今やそれは 「失われた世界」 なのである。
 粗末な庵に住み村の子供たちと毬つきをして遊んだ良寛は路傍に咲く 「はこべの花」 にも感動したという。 現代人はそんな路傍の花などには目もくれず急ぎ足で通り過ぎて行く。
 そんな良寛が慈しんだ貞心尼へ遺した辞世の句
「かたみとて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉」
 自然の万物事象をかたみとして遺し得た良寛、わずかな土地と貯金しか遺せない我々。 こころの風景の豊かさの乖離いかばかりか ・・ もって瞑すべきである。
2000.2
 前段の断象は物質空間での失われた世界であり、後段の断象は意識空間での失われた世界である。 以下の記述はそのふたつの失われた世界の断象を同時に遭遇することを画して創られた思考実験である。
 彼は若かりし日に住んでいた街を50年ぶりに訪れた。 街並みは大きく変わってしまっていたが少しも変わらないところもあった。 だがまったく変わってしまったのはその街角のどこをさがしてもその時代をともに生きた彼の 「ともがら」 や 「かおみしり」 の姿が見つからないという消しがたい事実であった。 そう 「かってあったあの世界」 は失われてしまったのである。 人はそれを 「過去」 と言うのだが ・・。

2019.07.26


copyright © Squarenet