Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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存在の時めき〜永遠は瞬間にあり
 以下の記載は 「存在の今の今」 を論じた 第1174回 「存在の時めき」 からの抜粋である。
 そこに椅子が存在するとはその存在が持続的に存在することを意味している。 その椅子は突然そこに出現したわけではなくしばらく前からそこに存在し続けている。 しばらく前とは過去を意味しているのであるからその椅子の存在の意味には 「過去の意味」 も含まれていることになる。 またその椅子はこの先もしばらくは存在し続けるであろうし突然消失するわけでもない。 しばらく先とは未来を意味しているのであるからその椅子の存在の意味にはまた 「未来の意味」 も含まれていることになる。 説明するまでもないが今ここにその椅子が存在することからしてその存在には 「現在の意味」 も含まれているのは当然である。 かくこのように存在には過去・現在・未来という時間の3態様が意味的に含まれている。 一挙に還元すれば存在とは既に時間であり、時間は既に存在に含まれている。 存在に含まれている意味をとり出すことを哲学者、大森荘蔵はその著書 「時間と存在」 の中で 「存在の時めき」 と呼んだ。 大森はさらにこの 「存在の時めき」 は道元が 「正法眼蔵」 で「 有時」 と呼んだものに他ならないとも述べている。
 大森荘蔵が 「存在の時めき」 と呼んだものは、第1300回 「期限の消滅」 で述べた 「時間にはこれといった期限など存在せず いつまでにやるという未来の期限も いつまでにしたという過去の期限も ともに存在しない もし期限というのであれば それは今の今である現在である」 という時空概念を 「存在という視点」 から描いたものである。 だが 「いつやるの? 今でしょう」 を 「存在の時めき」 と訳した大森荘蔵の慧眼には哲学者の認識とは 「かくあるか」 と思い知らされる。
 またドイツの哲学者ハイデッガーはその著書 「存在と時間」 の中で、ニーチェの 「永遠回帰説」 について次のように述べている。
 未来において何が起こるかはまさに決断にかかっているのであり、回帰の輪はどこか無限の彼方で結ばれるのではなく、輪が切れ目のない連結をとげるのは、相克の中心としての 「この瞬間」 においてなのである。 永遠回帰におけるもっとも重い本来的なものは、まさに 「永遠は瞬間にあり」 ということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目前を疾走する刹那とかではなく、未来と過去との衝突であるということである。
 ハイデッガーの言うところは、永遠は遥か彼方にあるのではなく、未来と過去を連結する 「今の今」 にあるのであって、この 「瞬間こそが永遠」 なのであるということである。 そして大切なことは、未来と過去が衝突し相克の中心であるこの瞬間での 「決断」 であるというのである。
 以上の論旨をくまなく省察すれば、「期限の消滅」 しかり、「存在の時めき」 しかり、「永遠は瞬間にあり」 しかり、視点は異なるものの同じ時空の断面を三者三様の言葉をもって描いているにすぎないことが理解されてくるであろう。

2019.03.05


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