Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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現実としての現在とは(1)〜過去よさらば
 現在に生きる者が 「過去のみ」 にこだわり、過去ばかりを考えていた場合、その者の 「現在」 は喪失する。 今の今という現在は 「明日になれば昨日という過去に転化する」 のであるから、いずれ明日になれば、再び今の今である 「現在をもまた過去として考えはじめる」 こととなり、明日の今の今もまた喪失する。 これを繰返すことで、彼の人生における 「すべての現在」 は喪失する。
 起きてしまった 「出来事」 はやがて過去となり 「変更不能」 となる。 従って、過去を考えるとは、変更不能な起きてしまった出来事を 「評価する」 ことに還元される。 つまり、あの戦争は正しかったのか、間違いだったのか ・・ あの時の私の行動は正しかったのか、間違いだったのか ・・ 等々の評価である。 だが、起きてしまった出来事で構成された過去が変更不能である以上、かかる評価は 「自己を納得させる」 に都合がよい 「我田引水の評価」 とならざるをえない。 依って、過去とは我田引水によるご都合主義的な評価で 「創作されたもの」 であることを常に念頭に置かなければならない。
 過去は常に 「浪漫的」 である。 素晴らしい出来事で構成された過去を持つ者であれば、変更不能な 「確定した」 素晴らしき過去世界に生きることは何にもまして居心地がよく、また安心感に満たされた状態であろう。 だが、過去と決別しなければ現在は喪失し、さらには未来は到来しない。 過去がいかなる魅惑のまなざしで誘惑してきても決して乗ってはならないのである。 今は亡き寺山修司は 「さよならだけが人生さ ・・」 とその詩中に記した。 過去と決別できる者のみが現在を生きることができ、また現在を生きる者のみが過去と決別することができる。 起きてしまった変更不能な出来事に執着し、なおかつ、我田引水的な過去の創作などに貴重な人生時間の多くを費やすなどは 「馬鹿げた浪費」 以外の何ものでもない。 人は全身全霊をこめて断言しなければならない。 過去よさらば ・・ と。

2018.12.25


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