Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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即身への道〜大いなる術
 即身とは 「意識と身体を融合する」 ことである。 換言すれば 「想像と現実を融合させる」 ことである。 還元すれば 「自らと宇宙を融合させる」 ことである。
 では自らの想像が現実と融合しないのはなぜか?
 この 「なぜ」 を考え始めることこそが実に即身への最大にして最強の障壁である。 それは 「仏になろうとした最澄」 が採った 「修行の道」 の糧が 「なぜを問う」 ところを拠り所にしているからに他ならない。 その道はどこまでいっても 「自らが仏であるとした空海」 が採った 「即身の道」 とは交差しない。 仮に想像と現実が融合しないとする原因を探し当てその原因を修行によって克服したとしても 「融合が達成」 されるかの見込みはない。 なぜなら、ひとつの 「なぜの解決」 は新たな次なる 「なぜの始まり」 であって、その追求は尽きることがないからである。 空海はかくなる 「なぜの無限循環メカニズム」 の陥穽に気づいたのではあるまいか? この道では人は救われないということを。
 空海にすれば自らの想像と現実は 「すでにして融合している」 のであって、そのことは人智をもってしては理解されないだけのことである。 空海が62歳で高野山に入定(入滅)する5年前に書き終えた生涯を代表する大作 「秘密曼荼羅十住心論」 の要約版 「秘蔵宝鑰」 の序文最終行に記した 「太始と太終の闇」 と題された以下の偈は本稿で幾度も登場しているが、あるいはそのことを語っているのではあるまいか? その視点で読んでみると少なくとも私には納得がいくのである。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
 空海の 「即身の道」 は、科学的合理性で思考が拘束されている常識人にとっては納得することは至難の業である。 何の根拠も無しに想像と現実が融合していることを信じなさいと言われて 「はいそうですか」 と納得する人は希なる者である。 だがそれを超えるところに密教の奥義がある。
 空海にしても科学的合理性にまったく無知であったわけではない。 史実は優秀な土木技術者であり、建築家であり、能書家であり、芸術家であり ・・ あらゆる技芸に通じていたことを伝えている。 その空海にして 「即身を説いた」 のである。 「なぜ」 を考えなかったはずはない。 何らかの方法をもってその 「なぜを超越」 したのである。
 その方法こそが真言密教の 「極意(大いなる術)」 なのであろうが、空海滅後1200年に至ろうとする今も尚それが 「かくある」 と衆に啓示できる大師は現れていない。 空海の前に空海なく 空海の後に空海なし ということであろうか?

2018.08.30


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