Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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空海と陽明
 先日。 真言密教の祖である空海が唱えた「即身成仏」と陽明学の祖である王陽明が唱えた「心即理」は同じことを述べていることに気がついた。
 陽明の「心即理」でいう「理」とは ・・ 道理であり、ものごとの正しいすじ道であり、条理であり、宇宙の原理であり、万物の生成と秩序調和の根源である。 つまり、心は万事万物の理であるとともに心と万事万物は一体であって心の内と外に対立はないとする教義である。
 他方、空海の「即身成仏」でいう「成仏」とは ・・ 難行苦行をせずとも現在の肉身のままで仏になることができるという教義である。
 「心即理」は心そのものは何もせずともそのままで宇宙の理になっていることを説き、「即身成仏」は身そのものは何もせずともそのままで仏であることを説く。
 日本仏教界における空海の対極は最澄であり、中国儒教界における陽明の対極は朱子である。 最澄や朱子の説くところは身の外にある理を極めてこそ万事万物の真理に至ることができるというものである。 依って仏になれると。
 かって私は「宇宙は完全か?」それとも「不完全から完全になろうとしているのか?」という二者択一の問いを立てたことがある。 それは相対論を提唱したアインシュタインと量子論を提唱したボーアとの相関を考えた折のことであった。 この視点からすれば空海や陽明の説くところは「宇宙は完全である」との認識に根ざし、最澄や朱子が説くところは「宇宙は不完全から完全に向かっている」との認識に根ざしている。
 両者の認識にはそれぞれ根拠と理由をもっているが、空海や陽明が言いたかったのは「ではいつになったら宇宙は完全になるのか?」という疑問である。 その手法は努力修練すればするほどに完全に近づいていくがどこまでいっても「完全ではない」という究極のジレンマがさけられない。 限りなく本物に近いが決して本物ではないという「現代社会の戯景」が浮かんでくる。
 であれば、もはや最初から本物として生きたほうが現実的である。 宇宙の内蔵秩序をその身に備えているとして生きることであり、その身がすでにして仏であるとして仏らしく生きることである。 この世は再びがない一期一会の世界なのである。 空海や陽明の考えはそこにある。
 ダーウィンの進化論は人類に多大な影響を与えた論であるが、この論からすれば宇宙は不完全から完全に向かって進化していることになる。 現代人の大半はこの論の語るところを支持しているのではあるまいか? したがって空海や陽明の断ずる「宇宙はそのままにして完全である」とする考えに違和感を覚えるに違いない。 だが、彼らがたどった艱難辛苦を究めた求道の道のりを想起するとき、行き着いたその最終理論がそれほどに不完全なものとは考えられないのである。

2018.05.12


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