Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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警官が人間をやっているんじゃない人間が警官をやっているのだ
 古い昔のことである。 手に取った本に以下のような話が載っていた。
 とある田舎の小川の畔。 堤を自転車で走っていた駐在所の巡査が川で密漁している青年を見かけた。 「そんなところで網を洗っていると 密漁と間違われるぞ」 自転車をとめた巡査は青年にそう声をかけた。 勿論。 巡査は青年が密漁をしていたのはわかっていてのことである。 そのことがあって以降、青年は二度と密漁をしなかったという。
 巡査は職務をまっとうするまえに、まず自らが人間であることを念頭におき、青年もまた同じ人間であるという視点で訓導したのである。 言うなれば巡査にあったのは 「警官が人間をやっているのではなく 人間が警官をやっているのだ」 という絶対的な自覚である。 事の順位で言えば 「主が人間」 であって 「従が警官」 という優先度である。
 それから幾星霜、時は流れた。 現代社会の様相はいかに ・・ 法律が人間をやっているような弁護士や検察官、権力が人間をやっているような政治家や経営者等々。 事の順位は職務の遂行のみが優先され、人間であることはどうでもいいような扱いである。 この世が 「人間のためにある」 というのであれば 「人間あっての法律であり 人間あっての権力である」 ことに疑義はない。
 くだんの青年がその後において密漁をしなかったのは、巡査が自分を人間として信じてくれたがゆえであろうし、青年自身が法律よりも 「人間として生きる道義の重み」 に目覚めたからに他ならない。 もし巡査が法に照らして厳しく処断したとしたら、あるいは青年は反省することもなく 「今度はもっと上手く密漁しよう」 と考えたのではあるまいか? 巡査はその殺伐とした未来よりも、青年の人間としての温かい未来を選択したのである。 その選択に可否を求めることはできない。 だが人間である以上は、そのような選択があっても許されるのではあるまいか?
 現代文明はどこかで肝心要の人間としての自覚を喪失させてしまったようである。 現代人がどこかコンピュータや機械のようにみえるのはそのせいかもしれない。 かくしてもたらされる世界とは虚無が漂う砂漠のような風景なのではあるまいか? 危惧はそのことである。

2018.04.05


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