Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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虚時間と虚空間〜無からの有の発生
 第774回「真理のかたち」では「無からの有の発生」における理論物理学者ディラックとマヨラナの予見について論考した。2013年11月27日のことである。その中で私はディラックの予見は「虚のエネルギで満たされた真空を想定する」ことで生まれ、マヨラナの予見は「過去に向かう虚の時間を想定する」ことで生まれたとする対比構図を提示している。その要旨を抜粋すると以下のようである。
 何もないとする真空に虚のエネルギの胎動を想定したディラックのひらめきは、よく常人がなせるものではなく、同様に未来に向かう実時間の世界に生きながら過去に向かう虚時間を想定したマヨラナのひらめきまたしかり、よく常人がなせるものではない。
 ディラックは時間に無関心ではあるが、もともと眺めている空間はハイゼンベルクの不確定性原理で述べるエネルギ保存則が一時的に停止する非常に短い時間 (限りなく 0 に近い時間) の世界である。この空間でこそ量子力学的なゆらぎのおかげで無から無償でエネルギを借りられるかもしれないのである。ゆえにディラックは真空は活動で沸き立っていると予見したのである。
 マヨラナが眺めている空間は未来に向かう実時間と過去に向かう虚時間の狭間であり、これまた非常に短い時間 (限りなく 0 に近い時間) の量子力学的なゆらぎの世界である。
 それらの空間は「Pairpole宇宙モデル」で私が描いた時空間を時間軸と垂直に断面したときに現れる時間 0 の刹那宇宙(時空間を時間で微分した世界)の胎動と等価的である。刹那宇宙では無から有への発生と有から無への消滅が間断なく繰り返され有と無が混合したエマルジョンとなりあらゆる可能性が「ゆらぎの状態」にある。
 2人が眺めていた空間とは言うなればこの刹那宇宙である。ディラックもマヨラナも私もまた眺めていた世界は同じであったことになる。その空間をディラックは「虚のエネルギで満たされたゆらぎの空間」と認識し、マヨラナは「実時間と虚時間の挾間に生じたゆらぎの空間」と認識し、私は「有と無が混合したあらゆる可能性に明滅するゆらぎの空間」と認識したにすぎない。
 以上の論考に第1152回「時間も空間もない宇宙構造」で導かれた以下の帰結を加えることで認識は新たなものになる。
 宇宙には過去も未来もなく(時間がなく) ただそれらが重なった現在だけがある。
 宇宙には遠いも近いもなく(空間がなく) ただそれらが重なった仕組みだけがある。
 無からの有の発生過程を語るマヨラナの予見での過去に向かう「虚の時間」の想定は、過去も未来もない(時間がない)それらが重なった「現在」を想定することで納得がいく。さらに無からの有の発生過程を語るディラックの予見でのエネルギで満たされた「虚の空間」の想定もまた、遠いも近いもない(空間がない)それらが重なった「仕組み」を想定することで納得がいく。
 力学法則(ニュートン力学や量子力学等々)は時間の向きに関係なく成立することはよく知られている。ビデオテープに収録されたその諸現象はテープを逆方向に再生しても同様にその法則は成立するのである。であれば過去と言い未来と言っても、その本質にそう大きな違いはない。未来に希望が無いというのであれば、過去に向かうのも一興なのかもしれない。
 しかして「真理のかたち」の末尾では、以下のようにその真理のかたちをまとめている。そのことには今も違いはない。
 「群盲象を撫でる」ということわざがある。盲人の集団が象に触って「象とは何か」を知ろうとしている様を描写している。その中で鼻に触っている者は「象とは蛇だ」と言い、足に触っている者は「象とは丸太だ」と言い、腹に触っている者は「象とは岩だ」と言う、耳に触っている者は「象とはヒラメだ」と言う。彼らの話を総合すると「象とは蛇で、丸太で、岩で、ヒラメだ」というわけである。
 「真理のかたち」とはおよそこのようなものなのであろう。どれもが真理の部分であって全体ではない。真理に到達しようとすれば部分を統合しなければならない。つまり、ディラックの予見、マヨラナの予見 ・・ 等々が統合されたとき、真理の女神は一瞬間こちらを振り向いて素顔でにっこりと微笑んでくれる。それがいつになるのかは背を向けている女神本人に聞いてみなければわからないが「彼女の気分しだい」というところが妥当な予測ではなかろうか ・・・。

2018.01.17


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