未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
漂う時空(4)〜現象と心象の狭間
この宇宙は主観とは別に客観的に存在しているのか? それともそのような「客観的な宇宙」は存在せず「主観的な宇宙」をただ客観的な宇宙と錯覚しているのか? この正誤は永遠に判定できない。
なぜなら主観的宇宙が自らの死後もなお存続し続けるのかは自らが亡くなってみなければわからないからに他ならない。同様に客観的な宇宙もまた自らの死後も存続し続けるのかも自らが亡くなってみなければわからない。
自分以外の他者が死んでも客観的な宇宙は存続しているではないかという主張は証明にならない。そこには「他我問題」の壁が横たわっている。他我問題とは他人の心をいかにして我々は知りうるかという哲学的な難問であり、結論から言えば「他人の心を直接に知る方法はありえない なぜなら私は他者ではないからである」というものである。 つまり、自分以外の他者が生きている世界もまた私の主観的な世界であって、私は他者ではなく、亡くなった他者の主観を直接的に知る方法はない。
結局、堂々巡りの末に、自らが死んでみなければわからないという、はなはだ曖昧な解決策に帰着してしまう。
オーストリアの哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889〜1951年)は「主体は世界に属さない それは世界の限界である」という独我論を提唱した。
この世界の限界とはどこにあり、世界の限界とはいったい何を意味するのか?
ウィトゲンシュタインが言う「私の見る世界の視野に 私自身の眼は含まれない 私の眼はながめる世界の視野の限界に位置している」というときの限界とは世界を眺めている私自身の「眼」である。
この限界(境界)の両側には、いったい「何が」あるのか?
この限界(境界)の向こう側に広がる世界は、物質を主役とする現象世界であり、限界のこちら側に広がる世界は、意識を主役とする心象世界である。 その境界面(限界面)に私自身の「眼」が位置している。
現象学を創始したオーストリアの哲学者、フッサールは、我々が見る現象世界は「意識の地平」であって我々の意識が編集した心象世界であるとした。世界は現象世界と心象世界が交錯する「狭間」に拓かれている。その狭間に位置するものがウィトゲンシュタインが言う「世界視野の限界である私の眼」に他ならない。
以下は373回「現象と心象の境界」からの抜粋である。
物質と意識は「Pairpole」である。物質は我々が眼にとらえ、手に触ることができる「現象世界の主役」であり、意識は我々が眼にとらえ、手に触ることができない「心象世界の主役」である。
解りやすく表現するために「眼」という肉体的器官を用いているが、哲学的表現をすれば、それは「自己」と言っても良いし、「自我」と言っても良い。つまり、私という自己は、物質で構成された現象世界と、意識で構成された心象世界の接点(限界点)に存在している。
私という「自己の外」に構築されている現象世界は科学の方法論で分析され、記述され、認識され、その中核は物理学である。 他方、私という「自己の内」に構築されている心象世界は哲学の方法論で分析され、記述され、認識され、その中核は心理学である。 私という自己の役割は、外に広がった現象世界と、内に広がった心象世界を繋げることで、「ひとつの宇宙を構成」することにある。
物質を主役とする現象世界は、ニュートン、アインシュタイン、ボーア ・・ 等々の物理学者たちによって探索され、また意識を主役とする心象世界は、フロイト、ユング ・・ 等々の心理学者たちによって探索されてきた。
その探索結果から得られた両世界の諸事相は、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、ハイデッカー ・・ 等々の哲学者たちによって統合されてきたが、その探索と統合の試行錯誤は、この不可思議な宇宙の片隅の一部の世界を解明したに過ぎず、気の遠くなる程の広大な未知領域が未だ手つかずにのこされている。
ただひとつ、彼等の探索と統合の報告書を読み比べてみると、あることに気づく。それは両世界の構造が、きわめて相似していることである。 ニュートンの力学はカントの哲学に、ボーアの量子論はユングの心理学に相似する。
以上を考える時、この知的探求の主題である「意識が物質を発生させるのか? あるいは 物質が意識を発生させるのか?」という根本義の何たるかが見えてくる。つまり、「意識に物質が宿るのか? それとも 物質に意識が宿るのか?」という根本的命題である。 (2003.11.13)
「現象と心象の境界」で行き着いた「意識が物質を発生させるのか? それとも物質が意識を発生させるのか? しかして 意識に物質が宿るのか? それとも 物質に意識が宿るのか?」という根本的な懐疑は、姿形は違えど冒頭に掲げた「宇宙は主観的な存在か? それとも 客観的な存在か?」という根本的な懐疑と通底で一致する。そのどちらの懐疑から入っても事の真理に至ることは必然であろう。
帰着した私の懐疑はまた「物質と意識の結びつき」を研究した物理学者、ロジャー・ペンローズ(イギリス1931年〜)の代表作「皇帝の新しい心」の語るところと一致する。「皇帝の新しい心」は発表されるやいなやセンセーショナルな論争を巻き起こした。ペンローズはその中で「現代科学の知識がいかに豊富で優れていても存在の究極の謎である人間の意識を説明することはできない」と主張するとともに、その意識を解明する鍵は物理学の2大理論である「量子論」と「相対論」の狭間に隠されていることを述べている。
多くの物理学者が量子力学と一般相対性理論をひとつにした継ぎ目のない「統一理論」を導きだそうとしては失敗を繰り返してきた。ペンローズは「皇帝の新しい心」の中で、その統一理論の「あるべき姿」と、いかにして「その思考が生まれる」のかの道筋を描いている。ペンローズの理論体系は漠然としたもので、物理学や神経科学によって立証されたわけではないが、もし彼の理論が正しければ、一挙に物理学の理論を統一し、哲学の最難問のひとつである「心と物の結びつきの問題」を解決するかもしれない。
ペンローズは多くの物理学者が「統一理論」ではないかと期待を寄せている「超ひも理論」には否定的である。彼が求めているのは「データを集めて結果を予測する単なる物理学の理論」などではなく「宇宙の謎である生命の秘密を解明する究極の答え」なのである。
ペンローズは自他共に認めるプラトン主義者であり、真理は「発明」するものではなく「発見」するものだと考えている。まことの真実には自ら開示する力を与えるような美しさ正しさ明快さを感じさせる「何か」が備わっているが、「超ひも理論」にはその「何か」が欠けているというのである。
「皇帝の新しい心」には書かれてはいないが、ペンローズはきっとかく言いたかったのではあるまいか? 「意識が物質を発生させるのか? それとも 物質が意識を発生させるのか? しかして 意識に物質が宿るのか? それとも 物質に意識が宿るのか?」と ・・ あるいは「この問い」に答えることこそが「統一理論」に至る「究極の道筋」なのかもしれない。
2017.10.30
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