Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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先が見えない社会〜おん目の雫 ぬぐはばや
 現代は先が見えない社会である。 だが社会とは人間が創った世界である。
 宇宙そのものはそんな人間たちの思惑に関係なくその社会のバックグラウンド(背景)として存在している。それは簡単で明瞭な事実であるが、多くの人はそのことを忘れている。忘れているというよりは自覚していないと言うほうが妥当であろうか。
 つまり、社会こそが実態であって、その社会が崩壊すれば宇宙が無くなってしまうかのように考えているのである。だが杜甫の「春望」の一節、「国破れて山河在り 城春にして草木深し」のごとく、国が破れて無くなったとしても、山川草木の自然(宇宙)は何らも変わることなく存在しているのである。
 巷間叫ばれる「大変だ大変だ」は人間が創った社会という世界での「大変だ」であって、とりまく宇宙にとってはどうでもいいことである。最近ではその「大変だ」にさらに情報化社会と銘打った情報の攪乱が加わり「大変だ」の喧噪はいや増すばかりである。
 先が見えない社会とは、あるいはこの上を下への「大変だ大変だ」の大合唱によってもたらされた視力の低下(目のくもり)に因をなしているのではあるまいか。本来は見えるべき背景としての宇宙が見えないという眼病である。ただこの眼病の治癒には困難を究める。なぜならこの眼病でいう眼とは「心の眼」を意味するからである。心のくもりをぬぐうことは有史以来の「人類の課題」でもある。
若葉して おん目の雫 ぬぐはばや (芭蕉)
 芭蕉が初夏の青葉あふれる奈良の唐招提寺の鑑真和上の座像を拝した時に詠んだ句である。鑑真は幾度もの難破の末に日本渡航を成功させ仏教の戒律を伝えた中国の高僧であり、渡航中に失明し盲目のままに仏教の興隆に尽くした。本国には再び帰ることなく日本の地で没している。句は芭蕉45歳の作で、唐招提寺を訪れたのは鑑真が没して千年の歳月が流れていた。芭蕉は鑑真の難行苦行に思いをはせ、像を拝した際にその雫が目に涙をうかべているかのように見えたのであろう。芭蕉は像を囲んでいた初夏の瑞々しい若葉をもって鑑真の涙をふいてあげ、その目にかくも美しい日本の自然(宇宙)を見せてやりたかったのではあるまいか。

2017.09.25


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