Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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世界の中心〜相対性に思う
 世界の中心はどこか? この問いは相対的である。 世界の絶対的中心などはどこを探しても見つからない。中央といい地方といいそれは同じである。かって京都が国の中央と呼ばれた頃の東京は見渡す限りの原野であった。今からおよそ400年ほども前のことである。その原野が今は国の中央と呼ばれている。
 かって奈良県の王寺に住んでいた私は奈良盆地南部に位置する明日香(飛鳥)の橿原神宮を訪れたことがある。優美な稜線と神威を醸す畝傍山(うねびやま 標高198.8m)を背に広大な神域を誇るかくも壮大な神宮が中央から隔絶されている鄙の地に存在していることに驚かされるとともに何ゆえかとの疑問をもった。だがそれは当然の仕儀であった。橿原は「日本建国の地」なのである。
 その経緯は以下のようである。
 天照大神の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこ)が豊かで平和な国づくりを一念発起して九州高千穂の地を旅立ち東に向かう。さまざまな苦難を乗り越えやがて明日香の地に至り、畝傍山の東南の麓に橿原宮を創建、第1代の天皇として即位した。それ即ち神武天皇である。今からおよそ2600年ほども前のことである。
 かくみれば橿原は日本の歴史と文化の発祥の地であるとともに「日本の原点」なのである。明日香(飛鳥)の古代遺跡群を訪れる観光客はあまたいるがその玄関口に位置する橿原の由来を知る人はそう多くはないであろう。 相対性とはかくのごとしである。
 かくあれば「我が世の春を謳歌する」現代の中央(中心)とて命運は同じである。それでも「世界の中心を」というのであれば、かくなる相対性を念頭に置いたうえで「貴方が今いるそこ」と言うしかない。
采女(うねめ)の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み 徒(いたずら)に吹く (志貴皇子)
 (大意)かつて采女の袖をあでやかに吹き返していた旧都明日香を吹く風も今は都も遠いのでただ無駄に吹いているだけである。
 この歌の題詞に「明日香宮より藤原宮に遷居りし後に志貴皇子の作らす歌」とある。遷都が行われるや人々は明日香を離れてしまう。建物も使えるものは移築したであろう。取り残された明日香はすっかり寂しい場所となってしまった。都を彩った采女達の華やかな姿は今はなく、空しく風が吹きすぎるだけである。どのような理由で志貴皇子が旧都、明日香を訪れたのかはわからないが、吹きすぎる風の中に1人佇み、幻想の中に華やかに着飾った采女達の姿を見たのであろう。志貴皇子の母もまた采女であったことからすれば、あるいは若き日の母の姿をも、その中にみたのかもしれない。

2017.09.14


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