事の経過は時系列で配列された未来・現在・過去という時間の経過でとらえることは一般的である。だが肝心なその時間を「目撃した人」は未だいない。 時間とはあるいは事件経過の「関数」として人間の意識が日常生活の機能性として創作した「抽象的便宜性」なのではあるまいか
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仮に生活の便宜性として考案された関数としての時間概念を採用せずに、未来を事件の計画、現在を事件の実行、過去を事件の結果という意識に基づいた因果律のみで考えれば、この世とはさまざまな「事件の生々流転」と還元される。 つまり、「事件が用意されるをもって未来」、「事件が発生するをもって現在」、「事件が消滅するをもって過去」という構造である。
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