Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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あれとこれの哲学〜抗争勃発の理
 人は自分のために生きるのか? それとも、誰かのために生きるのか? 人生における究極の問いである。
 だがこの問いに「二者択一の解答」を迫るのはあまりに事を単純化し過ぎている。 もし「自分のため」とすれば、人生は利己的で独善的なものとなってしまうし、もし「誰かのため」とすれば、人生は没我的で従属的なものとなってしまう。 おそらく答えは「自分のためであるとともに誰かのため」という折衷的なものになるであろうが。 そのような生き方は可能であろうか?
 可能にするためには事の始まりとなった「あれかこれか」という二者択一の判断基準を捨て去り、「あれもこれも」という統合的な判断基準へ移行しなければならない。
 本質を還元すれば「あれにもこれにもこだわらない」ということである。
 現代社会における「もめ事」の大半は、この「あれかこれかにこだわる」ことに端を発するものである。「あれかこれかにこだわる」ことの本質が、やがては人をして「こうでなければならない」という断言に導いていく。 ここまで来れば、もはや思考停止は目前である。 結果。顕現するのは独善的な排他主義の横溢である。 横溢の度合いもひとりふたりであればさして問題とはならないが、多くの人に蔓延した場合は大問題となる。 結果。抗争や紛争が世のあちこちで勃発することになる。
 あれとこれの統合をめざした思索の代表例は哲学者、西田幾多郎が目指した「絶対矛盾的自己同一」であろう。 絶対矛盾的自己同一とは、相反する2つの対立物がその対立をそのまま残した状態で同一化することであり、西田は2つの対立が一体であることを実感することで人は悟りの境地に至ることを示した。 天と人とは対立物であるが「我はすなわち天なり 天すなわち我なり」と悟った瞬間に世界観は一変するのである。 かかる境地は日本人が禅において、あるいは武士道において、古来より目指してきたものでもある。
 ともあれ、あれかこれかの判断は誰しも常日頃において何気なく行っていることである。だがその裏には世界平和にさえ影響を及ぼしかねない因果が含まれていることは充分に承知しておく必要がある。ゆめゆめなおざりにしてはならないのである。
 以下は蛇足であるが、漫画家の赤塚不二夫が導入した「これでいいのだ」という独自の判断基準についてふれておきたい。 「これでいいのだ」という判断基準は一見すると独善的で排他主義のようにみえるが、「あれかこれか」の判断基準が付帯している「あれかこれかにこだわる」という観念が欠如しているようにみえることでは異質であり、思考が停止しているようにみえることでは同質である。さらに「これでいいのだ」の観念を突き詰めていくと「あれでもこれでもいい」という統合的な判断基準に近づいていくようにもみえる。 そしてついには「これでいいのだ」という断言が、あるいは絶対矛盾的自己同一の「完成形」ではないかとさえ思えてくる。 しかしながら、その真意は導入者であった赤塚不二夫が天国へ旅立ってしまった今となっては、もはや永遠の謎となってしまった。

2017.08.14


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